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ごくわずか!ペットと一緒に入れる永代供養墓

ごくわずか!ペットと一緒に入れる永代供養墓

皆さんこんにちは。

幼少よりペットに囲まれて過ごしてきた住職です。

ここ数年で様々な供養の形が増えておりますが、ペットと一緒に入れるお墓って少ないと思いませんか?

その理由について回答しているサイトをあまり見かけません。

以前、ペット供養に関するブログを書きました。

今回は、仏教の教えに準じた記事です。

何故、この記事を書こうと思ったのかといいますと

最近、よくお聞きするお悩みで、お墓の利用者様が「隣の墓にペットを一緒に入れないでほしい」「ペットと一緒に入るもんじゃない」というご意見があります。

しかし、今やペットはただの動物ではなく家族の一員という認識です。

少子化で子供の数は減少していますが、他方でペットの飼育件数は増えてきております。

このような社会的背景を考慮し、拙寺ではペットと一緒に入れる永代供養墓を建立いたしました。

ペットとお墓に一緒に入ることは、もはや当たり前の時代です。

その理由について、僧侶の視点から書いていきます。

人とペットの関係性

皆さんペットは好きですか?

私は、犬猫はもちろん魚類、爬虫類、両生類、鳥類など生き物全般が好きです。(虫はちょっと苦手)

飼っていると本当に癒されますし、お世話をする過程で成長していく姿を見ると嬉しく思います。

一般社団法人ペットフード協会の犬猫飼育者に対するアンケート調査によると

コロナ禍において

・犬の場合は「心穏やかに過ごせる日々が増えた」人が多い。
・猫の場合は「毎日の生活が楽しくなった」「寂しさを感じることが減った」人が多い。

というようにペットと共に過ごすことが飼い主の心を癒し、孤独感を緩和しているということがわかりました。

他にも

Q「生活にもっとも喜びを与えてくれること」という質問の回答では

・20-40代までが「家族」が最も多く、「ペット」は第2位。
・40-50代や、単身・未婚者においては、特にペットが喜びを与えてくれる存在となっている。

というようなデータも出ました。

このように、家族の次にペットが、あるいはペットが家族よりも優先されている実態が明らかとなりました。

”遠くの親戚より近くの他人”という言葉があります。

たとえ親族であっても、ずっと側にいてくれるペットの方が家族よりも大事であると考えるのは妥当です。

このように、ペットは私たちの生活には欠かせない存在ですし、場合によっては家族であるという風になってきております。

以下、データ引用先のリンクを貼っておきますのでご覧ください。


【一般社団法人ペットフード協会】

昔から存在したペット墓

飼い主に忠義を尽くした犬「忠犬ハチ公」はとても有名です。

ハチ公は飼い主の上野氏と共に東京の青山霊園へ埋葬されています。

このように、ペット墓とは言えませんが、人間とペットが一緒に埋葬されるのは昭和初期からありました。

しかし、ハチ公よりも遥か昔に”義犬塚”という犬専用のお墓があったことをご存じでしたか?

命がけで主人の命を救ったり、主人の命令に殉じた犬のことを義犬(ぎけん)といいます。

実は、日本各地にこの義犬の塚(お墓)があります。

[伝説の犬塚]
・聖徳太子の雪丸塚
・犬飼の大歳神社
・光前寺の霊犬塚
・高安の犬宮
・犬鳴山七宝龍寺の義犬塚
・六美の犬頭神社・犬尾神社
・善通寺の空海義犬塚
・犬墓の空海義犬塚
・福本の義犬塚
・長谷の義犬塚
・蓮如の義犬塚
・羽犬塚
・鐚原の老犬神社

[史実の犬塚]
・小佐々市右衛門前親の「華丸」の墓
・加藤小左衛門の「矢間」の墓
・暁鐘成の「皓」の墓
・横田三平の「赤」の墓
・は組の新吉の唐犬「八」の墓
・島津随真院の「福」の墓
・小篠源三の「虎」の墓

伝説としての最古は

・義犬塚古墳(ぎけんづかこふん)

『日本書紀』によると、6世紀に朝廷で権力を握っていた物部守屋(もののべのもりや)の家来である捕鳥部萬(ととりべのよろず)が自害した後、その死体を守り横になってそのまま亡くなったといわれる白い犬がこの古墳には葬られているとされています。

・奈良県王寺町にある聖徳太子の愛犬「雪丸塚」

雪丸は人の言葉を話したそうです。

史実として最古は

・小佐々市右衛門前親(こざさいちうえもんあきちか)の犬「華丸」の墓

長崎県大村市にある本経寺というお寺の境内地にあります。

ハチ公より285年も前の江戸時代に建立されました。

このように、古来より畜生であっても忠義を尽くした犬の為に各地にお墓が建立された歴史があります。

その他、ペットではありませんが

家畜や魚、鯨の弔いの為にお墓(塚)が建立されることもよくありました。

ペットと仏教の関係性

ペット供養などのお問い合わせで

「同じところ(浄土)へ行けますか?」

「同じ場所(お墓)に入れてご先祖様に悪いような」このようなご相談をお受けいたします。

確かに、そのお気持ちはよくわかります。

素直に「大丈夫ですよ」と言いたい所なのですが、素直に言えない宗教者側の問題があります。

宗派の解釈にもよるのですが、ペットが人間と同じ場所(浄土)へ往けるかどうかは古来より僧侶たちの論争の火種でした。

その理由についてこれから書いていきます。

ペットの立ち位置

六道輪廻(ろくどうりんね)という言葉を聞いたことがありますか?

人間をはじめとする生きとし生けるものを衆生(しゅじょう)と言いますが、衆生は死んだら六つの世界(六道)上下の階層的な世界へ割り振られます。

割り振り方は、生前の罪の重さです。

それを審判するのが有名な閻魔大王(えんまだいおう)をはじめとする7名の裁判官です。

六道の世界は上から順に

・天界 (神々の世界。人間より楽しみの多い世界だが、悩みや寿命は人と同じようにある)
・人間界(私たちの世界。生きる上で様々な苦しみがつきまとう)
・修羅界(争い好きの神々が住む世界。戦争が絶えず休まることがない)

・畜生界(動物に生まれ変わる世界。弱肉強食で自分より大きな動物に食べられることに怯える)
・餓鬼界(飢えや渇きに苦しむ世界。食道が細いうえに、食料が瞬時に灰と化す)
・地獄界(もっとも重い罪を犯した者が落ちる世界。あらゆる苦しみを受ける)

天界から修羅界までは人間らしさの残る世界ですが、下位の世界である地獄界、餓鬼界、畜生界の三つの世界は仏教では悪い行いをした結果として行く世界なので、行かないようにするべき世界です。

最も大きな三つの煩悩「貪瞋痴」(とん・じん・ち)
・貪 貪りの心 餓鬼界
・瞋 怒りの心 地獄界
・痴 無智の心 畜生界

これらの三つの悪い心が下位の世界に繋がっているのです。

このうち、畜生である動物は無智の者が堕ちると言われている世界です。

”仏法を学ぶ機会があっても学ぼうとせず、本能のまま暮らしている”

畜生界が人間界よりも低い世界にあるという理由から”ペットは人間より劣っている”という考えが成立します。

実際に、動物が食品として利用されたり、毛皮製品として、或いは労働力として人から使われる立場にありますね。

このようなことから「同じ場所(お墓)に入れてご先祖様に悪いような」という考えがおこるわけです。

ペットは浄土へ往けない?

六道の世界の中、ペットの立ち位置をご紹介いたしましたが、これで終わりではありません。

天界よりも上の世界が実は2つあります。

1つは天界より上の

・菩薩界(三層構造で、悟りまでもう少しの修行者の世界。苦しみからの解放が近い)

もう1つは、最終到達点。

・仏界(あらゆる苦しみから解き放れた極楽の世界。浄土に住み自身が仏様と成ってあらゆる衆生を救う)

六道から各世界を見てきましたが、この世界を総称し㊅道+菩薩界㊂層+仏界=十界(じっかい)といいます。

今、私たちのいる人間界より上の世界へ転生(生まれ変わる)するにはどのようにすればよいのかというと

”修行”です。

お経に書かれている事を実践し、善い行いを積むこと(善行功徳)によって仏界へと一歩ずつ近づいていきます。

ペットの仏教的な立ち位置は、畜生道(動物の世界)で無智の者が堕ちると書きました。

無智とは”仏法を学ぶ機会があっても学ぼうとせず、本能のまま暮らしている”者のことです。

つまり、ペットは最初から善行功徳を積む能力がないので仏界へは往けない。(仏様にはなれない)

このような論理で「同じところ(浄土)へ行けますか?」という問いに対して素直に「大丈夫です」と言えないわけです。

確かに修行もせず、それどころか仏法を学ぶ機会があっても学ぼうとしない者が、まじめに修行し続けてきた高僧などと同じ場所(浄土)に往けるとあっては仏教の教理自体が崩壊します。

しかし、お釈迦様は人間以外のあらゆる生き物(衆生)にも救いの教えを説き述べてくださっているのです。

あらゆるものが救いにあずかる

仏教の世界は広大です。

それは何故かというとお釈迦様が遺された経典(聖典)が多いからです。

更に、それらを註釈・研究された書物も合わせるとかなりの数になります。

それに比べ、キリスト教やイスラム教などは聖書は1つです。

この経典の数が膨大なことから「いったいどの教えがお釈迦様が本当に言いたかったことなのか?」という事態を招き、各宗派に分かれていきました。

もとは1人のお釈迦様の教えなのに宗派が分かれ、その宗派の解釈によって複雑になっていきました。

次から、この広大な仏教教理の中

”畜生でも救いにあずかる方法”をお伝えしていきます。

全てのものは素質がある

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)という経典に「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。

”ことごとくすべての生きとし生けるものは仏と成る性質(可能性)を持っている”という意味です。

また、対象範囲が広くなった「山川草木国土悉皆成仏」という教えもあります。

仏教では、植物以外の生き物を有情(うじょう)といい、草木土石などは非情(ひじょう)と分類されます。

もともと、この非情は”心がないので仏に成る性質を持ち合わせていない”という考えだったのですが、お経の解読や論証により”成仏できる可能性がある”とされました。

仏教では仏様や仏様の世界である浄土を”真理そのもの”と捉えています。

煩悩を常に具えている私たち衆生が、自力で”真理”を理解するのは大変難しいことです。

そうなると、やはり成仏できないのでしょうか?

そんなことはありません。

必ず、救いの手だてをご用意してくださっているのが仏教です。

すべてのものを救う仏

厳しい修行と戒律によって成仏できるという考え方を”自力聖道門”(じりきしょうどうもん)といいます。

わかりやすくいうと、自分が頑張った善い行いの分だけステップアップし、悟りへの道が開かれていく考え方です。

しかし、拙寺浄土真宗の教えは違います。

”阿弥陀如来という仏様のお力によってのみ救われる他力浄土門”(たりきじょうどもん)という考え方です。

仏教では、薬師如来、大日如来、釈迦如来、多宝塔如来などたくさんの仏様がいて、それぞれ悟りへの道を手助けしてくださいます。

しかし、実は手助けの際に色々と制約があります。

その中でもっとも制約・条件が易しいのが”阿弥陀如来”(あみだにょらい)

別名を”無量寿如来”(むりょうじゅにょらい)といいます。

この阿弥陀如来は「生きとしし生けるものを必ず救う」と誓われ永い修行の果てに仏となられた方です。

『無量寿経』(むりょうじゅきょう)というお経の中に

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

現代語訳

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

このように誓われました。

心から信じて、浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏(南無阿弥陀仏)と称えれば悟りへの道が開かれていくというのは画期的です。

ちなみに、最後の文(唯除から後)に関して浄土真宗開祖の親鸞聖人は「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」の意味を

「唯除五逆誹謗正法といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」と見られました。

簡単にいいますと「阿弥陀如来がどれだけ悪いことかをよく知らせてくだる親心で、きちんと叱った後に皆救われていく」ということです。

念仏が称えられないものは?

このような疑問もあるかと思いますが、大事なのは「念仏を称えることではなく”救われたい”と心から阿弥陀如来に願うこと」です。

生存本能のある生き物が”救われたくない”と考えるのは不自然ですので、あらゆる生き物は必ず救われたいと願うはずです。

この根拠が書かれている箇所は、阿弥陀如来の”四十八願”の中でも最重要”十八願”(本願)といって、”生前”に生きとし生けるものを必ず悟りへと誘い、”生前”に信心を賜ることにより極楽浄土へ導かれると教えています。

このように阿弥陀如来のお力(本願)をただ拝受することを「他力本願」といいます。(世間的に言う他力、他人任せとはまったく意味が違います)

浄土真宗の救い

浄土真宗は鎌倉時代の僧侶 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が開祖です。

その親鸞聖人が大切にされている経典の一つに『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)というものがあります。

この経典の中にこのような言葉があります。

「佛心者大慈悲是 以無縁慈 攝諸衆生」

現代語訳は

「阿弥陀如来の心というは大いなる慈悲なり。この隔たりのない慈しみの心をもってもろもろの衆生を浄土へおさめとる。」という意味です。

慈悲というのは

見返りなく相手の悲しみに寄り添い苦しみを除くことです。

その慈悲の心に満ち溢れた方を”阿弥陀如来”というのです。

ほかにも『正像末和讃』(しょうぞうまつわさん)という親鸞聖人の書物には

「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」

現代語訳

「阿弥陀如来がなぜ衆生を救うために四十八願をおこされたのか考えてみると、悩み苦しむものを放ってはおけないからです。そのため、私たち衆生に常に寄り添うように、その力(本願他力)を私たちに振り向け、慈悲の心を完成し、仏様となられたのです。」

阿弥陀如来をご本尊とする宗派においてはこの仏様のおにより力”全ての衆生が救われる”ということをご理解いただけたでしょうか?

これこそが”畜生”でも救われる理由なのです。

おわりに

全ての生き物はみな阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)によって救われる対象です。

仏様は、私たちが「あの人が好きだ、あるいは嫌いだ」などと言って過ごしている”偏見”とは程遠い次元にいらっしゃいます。

偏見などなく命を平等にみておられるのです。

ですから、何度も言うように生きとし生けるもの全てが救いの対象なのです。

このようなわけで

”仏法を学ぶ機会があっても学ぼうとせず、本能のまま暮らしている”ペットでも、人と同じように救われていくのが浄土真宗のみ教えであり救いなのです。

「ペットと一緒にお墓に入りたい」という施主様の想いに応えまして、拙寺の永代供養納骨壇アミターユスを是非ご検討ください。

以上、ごくわずか!ペットと一緒に入れる永代供養墓についてでした。

【】内に永代供養納骨壇アミターユスの詳細リンクを貼っておきますのでご覧ください。


【永代供養納骨壇 個別区画編】

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早17年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。