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今話題の永代供養 浄土真宗編

皆さまこんにちは。

緊急事態宣言もあけて、行楽日和となりましたが油断していると以前のように感染者が増えないかどうか心配な住職です。

さて以前、浄土真宗の永代供養についてのブログを書きました。

上記ブログ内で「浄土真宗の永代供養について」の考え方を簡単に書きましたが

今回はより詳しく経典などに基づいて「供養」という行為を考えていきたいと思います。

一般的な永代供養とは

まず、永代供養という言葉についておさらいしておきます。

一般的には、永代供養=追善供養というように先祖を弔うことが永代供養であるという考え方が定着しております。

故人様、ご先祖様のために遺族や子孫が行う供養のことを、追善供養(ついぜんくよう)ともいいますが、これは故人様が死後の世界で安らかな眠りにつけるよう、子孫が代わって善事を行うという考え方です。

何故、このようなことをしなければならないのかと言うと、仏教全体では死んでからすぐに天界(天国)ないし浄土へと行けるわけではないからです。

人間は死ぬと、中陰(ちゅういん)という49日間の死出の旅がはじまります。

その旅の道中、7日ごとに死者は様々な試練を受けますので、すぐさま安らかに眠ることはできません。(最も有名なのが、三途の川を渡ることと、閻魔大王に裁かれるというこではないでしょうか)

これら旅の試練は、生前の行いによって大きく左右されると言われております。

すなわち善い行いをしたものは試練の度合いは易しく、逆に悪い行いをしてきたものは試練の度合いが難しい訳です。

「ご冥福をお祈りいたします」という言葉は、「この試練の旅が少しでも楽でありますように」と願いを込めていう訳ですが、親族であるならばできるだけ故人様の旅が易しいものでありたいですね。

しかし、それらは説明した通り「本人の生前の行い」で決まります。

ところが、本人はすでに死んでしまっているので旅の試練がいくら難しくても、その道中に善行を積み試練を易しくすることはできません。

そこで少しでも試練を緩和する為に、生きている人(親族)が亡くなった本人の代わりに冥福を祈って供養するのです。

故人様のために善を積むことで、故人様の試練が楽になりますし、同時に来世においてより良い世界に生まれ変われるのです。

そして、ご先祖様や故人様に永代供養=追善供養するということは、その善い行いや徳が生きている自分自身にも返ってくるというふうに考えられています。


ところが、そもそも供養をしてくれる親族がいない方が増えてきております。

また、「親族はいるけれど死後の面倒までみてくれるかどうかわからない」「死後のことまで世話をさせて親族に迷惑ではないか」というような考え方をされる方も増えています。

このような事情から、供養する親族(子孫)がいない場合に備えて、あらかじめ永続的に供養を聖職者(僧侶)に代行してもらえる方法が「永代供養」という訳です。

お墓を守る人や、善行功徳を積む子孫がいなくても、永代に供養が届くようになります。

供養の仕方

では、具体的にどのような行いが供養となるのでしょうか?

一般的には以下の行いを「供養」と呼びます。

・故人の命日(月命日)に行う月参り
大阪では一般的ですが、故人様の祥月命日にご自宅のお仏壇の前で読経し、その後法話や仏事相談などをします。

法事に比べ、より身近に仏縁を結び、かつ人生相談、終活の相談なども出来ます。
お寺により様々ですが、当寺院では上記内容以外の対応もしております。

・忌日法要、年忌法要
四十九日など、亡くなった命日から数えて7日ごとに行われる法要を忌日法要、一周忌、三回忌など年ごとに行われる法要を年忌法要といいます。このご法事に際して、本来参拝者は積極的に参加(読経・お供え・焼香・仏法聴聞など)することにより故人様も自分自身も供養されます。

・仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたりする
ご法事のように特別な日(命日)ではなくても、日常生活から故人やご先祖を偲び、冥福を祈るというのも立派な追善供養です。一人でも、ご家族だけでも出来る最も身近な供養です。

・各仏教行事に参加する
ご存じない方も多いですが、最近流行っている御朱印集めや写経、座禅などは比較的簡単な修行に該当します。
そのような行為を通じて仏縁を結びつつ、知らず知らずのうちに自身も仏教を学んでいるのです。(単なるストレス解消や娯楽という考え方はやめましょう)

浄土真宗の供養

さて、今まで書いてきた内容は浄土真宗以外の宗派に該当する考え方です。

古来より仏教は、厳しい修行と戒律(自力修行)によって成仏できるという考え方が主流でした。
ですから修行などをして善行功徳を積まないと「死出の旅」で大変な目に合うわけですね。

では、浄土真宗の供養とは何か?

詳しくみていきましょう

浄土真宗は他力の教え

厳しい修行と戒律によって成仏できるという考え方を「自力聖道門」といいます。
わかりやすくいうと、自分が頑張った分だけステップアップし、悟りへの道が開かれていく考え方です。

ところが、浄土真宗は仏様のお力によってのみ救われる(悟りへの道が開かれていく)「他力浄土門」という考え方です。自分がいかに頑張ったとしても悟りへの道は到底開かれて行かないということで、よく「修行をサボっているだけでは?」と誤解されますが、それは私の努力がいかにいい加減で曖昧かどうかをまず知る必要性があります。

浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」という仏様です。

薬師如来、大日如来、釈迦如来、多宝塔如来などたくさんの仏様がいらっしゃって、それぞれ悟りへの道を手助けしてくださいますが、実は制約が色々とあります。

その中でもっとも制約・条件が易しいのが阿弥陀如来(別名 無量寿仏)です。

この阿弥陀如来は「生きとしし生けるものを必ず救う」と誓われた仏様です。

その根拠は『無量寿経 巻上』というお経の中に
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

現代語訳すると、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」と誓われました。

心から信じて、浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏(南無阿弥陀仏)と称えれば悟りへの道が開かれていくというのは画期的です。

ちなみに、最後の文(唯除の文)に関して浄土真宗開祖の親鸞聖人は「唯除五逆 誹謗正法」の真意を
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

このように説かれていて、簡単にいいますと「阿弥陀如来がどれだけ悪いことかをよく知らせてくだる親心で、きちんと叱った後に皆救われていく」ということです。

これが書かれている箇所は、阿弥陀如来の”四十八願”の中でも最重要”十八願”(本願)といって、生前に生きとし生けるものを必ず悟りへと誘い、死後信心を賜ることにより極楽浄土へ導かれると教えています。

このように阿弥陀如来のお力(本願)をただ頂戴することを「他力本願」というのです。
(世間的に言う他人任せとはまったく意味が違います)

ですので「どのような悪人でも阿弥陀如来によって救われる」と信知するものは亡くなった後すぐに極楽浄土にたどり着くため、追善供養は必要とされていないのです。

本題

長くなりましたが、本題です。

浄土真宗の永代供養について同義的扱いを受けるものに永代経があります。
「浄土真宗で永代供養をしてもらった」という場合は、この永代経を指していることがあります。
永代経とは、永く伝えられてきた教えを、子孫である私たちも教えていただき、引き継いでいこうという考え方です。

つまり、「亡き人を縁として、私たち自身が仏の教え(本願)に遇う」ためのものです。

ですが、読経してもらうのただを聴くだけというわけではありません。
そうすることで仏縁を繋ぐのです。

仏縁とは、いままであまり仏教に縁の無かった人が、 故人を縁として、仏教に触れる機会なのです。 そしてその、教えを聞く宗教空間としてお寺や自宅の仏壇、お墓、果てはこのブログがあります。そのような、非日常の空間を通し、 故人を縁として、自分だけではなく、後の世代も仏縁に出遇うことをいいます。

これが永代経の意味です。

ですので、整理いたしますと「亡き人の供養」と「生きている私たち自身の為の供養」という2つの意味を持っていることとなるわけです。

この意義に則り、永代供養を主体とした法要を永代経法要といいます。
故人をしのびつつ、 「教えが永代に伝わるように」と生きている自分自身をはじめとする子や孫に伝えることを目的としているのです。

まとめ

以上、浄土真宗の供養についてみてきましたが

まとめると

・死後、阿弥陀如来のご本願によりみな救われるので浄土真宗の供養は追善供養ではない。
・浄土真宗の供養は亡き人と、今を生きている私と、仏法を繋ぐ大切な行事である。

ということです。

阿弥陀如来にみな救われるのなら「いったい何のために供養するか」という質問もよく受けますが、仏法に遇わないと人間何事も都合よく考えてしまうものです。

すなわち、元気で何もないときには仏法は疎かにされ、逆に自分の大事な人が亡くなったときには一生懸命仏法を学ぼうとされる方が多いものです。

つまり、”仏法は普段私の日常生活においては必要ない”と考えられているのです。

しかし、お釈迦様は”今を生きている私にこそ必要である”と教えを説いてくださいました。

浄土真宗においては仏法を学び、念仏を実践される方々の生活を「御恩報謝」といいます。

悟りへの道に特殊な能力や財力は必要ありません。

ただひとえに阿弥陀如来への感謝のみなのです。

その阿弥陀如来へのお礼もただ一つ、それは「仏法を、特に念仏を喜ぶこと」なのです。

これらを実践することにより、故人様のみならず、自身の死後の問題が解決されていくのです。

以上、浄土真宗の供養についてでした。

更に詳しく知りたい方は下記リンクよりお聴聞くださいませ。


【観無量寿経のココロ】

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早17年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。