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浮世離れしたお寺は魅力的か?

今回は普通のblogです。

小学生の頃、私の朝の目覚ましは祖父の読経とアニメ「一休さん」のOPでした。

朝早く祖父がお参りの準備を済ませ、「正信偈」を勤めます。この時、まだ私の意識は朦朧としているのですが、少しずつ覚醒していきます。

そして起きる時間になると、祖母が必ず大音量でテレビを付けます。

鐘がゴーンと鳴り「一休さ~ん!は~い!!♪♪」という具合に元気で軽快なリズムが鳴り響く。

今思えば、相当騒がしい起こされ方でした。

しかし、小さいながらも仏事との接点がここで生まれたわけであります。起きてしばらくは、ボーッと一休さんを観ていたのですが、毎朝観ているとお決まりのパターンというものを見つけます。

それは、足利将軍が一休さんを負かせる為に、家来の新右衛門を遣わせトンチ勝負をするというものか、将軍が困り果てて、一休さんに知恵をお借りするかというパターンです。いずれにせよ、都合よく将軍様に呼び出しを食らってはトンチで解決をするというものですね。お坊さんは頭が回り、修行の合間に暇人の相手もするのかと子供ながらに思っていました。

さて、17歳で仏門に入りましたが「僧侶とはどうあるべきか?」ということを考えておりました。すると、やはり小学生の時の一休さんがイメージとして残っていたのですが、師匠を見てそのイメージは覆ることとなりました。何故なら、師匠は結婚していて、酒を飲んで、嫌なものは嫌と言っていたからです。一般家庭出身の私は衝撃を受けましたが、すぐに腑に落ちました。「だって人間だもの」と。

しかし、世間的に僧侶といえば、山岳修行や座禅、寒水行などを平然とこなし、何事にも動じず、トンチが働くとイメージされますね。断言しますが、そんなことはありません。

むしろ、多宗派数多くの僧侶と会ってきましたが、皆様師匠のようなタイプの方が圧倒的でした。これを、堕落した日本仏教と僧侶というように揶揄されることもありますが、逆に普段から浮世離れした生活を送る僧侶が、人々の悩みに応え、共に解決し、歩む能力などあるのでしょうか?

おそらく、僧侶が厳格であればあるほど、「悩みの種自体を摘み取ってしまいなさい」というでしょう。極端かもしませんが、失恋したら「そもそも人を好きにならなければいい」とか、家族を亡くして悲しいなら「それなら最初から家族を持たなければよい、人は必ず死ぬ。それが諸行無常の理なり」と。

仏教は人間の真理をストレートに伝えます。修行が足りていない者や、学が浅い者には大変厳しく、時に残酷にすら聞こえてしまいます。しかし、その考えを打破する者が現れました。それが他ならぬ親鸞聖人だったのです。結婚をして家庭を持ちながらも、その地域の人々と共に、同じ生活をすることによって、はじめて人々の悩みに仏法を用いて応じることができるのだと。

これを「在家仏教」といいまして、今日の僧侶はほとんどが在家仏教者な訳であります。このように、一般的な僧侶のイメージはむしろ長い歴史の中で消えていき、人々の悩みに同じ立場で答えることのできる者が残っていったのです。とはいえ、堕落しすぎた僧侶は一定数おります。見つけた時は、お不動様のようにきつくお叱り、本来の道へお戻しください。 私も例外ではありません(笑) 南無三。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。