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お釈迦様が悟りをひらかれた日

お釈迦様が悟りをひらかれた日

皆さんこんにちは。

12月8日、本堂に於いて「成道会」(じょうどうえ)を勤めました。

成道会とは、お釈迦様が悟りをひらかれたことを記念して行われる法要のことです。

お釈迦様の故事にちなんで勤められる法要には降誕会(お釈迦様の誕生日)、涅槃会(お釈迦様の亡くなられた日)などがあります。

動画では、”四門出遊”(しもんしゅつゆう)”悟り関しての見解””自灯明法灯明”(じとうみょうほうとうみょう)を述べました。

また、動画内で触れておりませんが、悟りをひらかれた時にお釈迦様は次のような言葉を遺されました。

奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず。

『維摩経』

「大変珍しく素晴らしいことだ。本来、生きとし生けるものはみな正しい道を持っている。しかし、誘惑や欲望によって正しい道を誤るのだ」と。

本来、人間が仏様になる素質を具えているという考え方を”悉有仏性”(しつうぶっしょう)ともいいますが、その素質を開花させるのは並大抵のことではありません。

お釈迦様の教え(お経)を正しく学び、信仰し、実践することで煩悩をコントロールする必要があるからです。

日常生活を送る中で、これらを実践することは不可能に近いのではないでしょうか。

しかし、その解決策もお釈迦様はご用意されております。

今回はその方法論について解説していきます。

伝道への決意

お釈迦様は菩提樹の下で悟りをひらかれた後、その状態をひとり喜んでおられました。

そして、しばらくして悟りを人々に広く伝えるかどうか躊躇されました。

それは何故かというと、悟りの境地は言葉を尽くして語ったところでそれを理解してもらうことは難しく、ただ自身が疲れるだけだと考えられたからです。

理解力のあるごく一部の人にだけ伝えようかと考えていた時、ある有名な出来事が起こります。

梵天勧請

悩まれるお釈迦様の元に、梵天(ぼんてん)が現れました。

梵天は日本でも比較的よく知られている神様です。

梵天は古代インドのバラモン教(ヒンドゥー教)において最高神として崇められております。

3大神の1人に数えられており、それ以外の2人として、これも有名な「ヴィシュヌ神(宇宙を保つ神)」と「シヴァ神(破壊の神)」がいます。

もともとはバラモン教の神でしたが、仏教においては、仏法の守護神として取り入れられました。

梵天がお釈迦様に対して「悟りを開いたのであれば、どうかほかの人に対して教えを説いてください」と説得されました。

梵天はお釈迦様の得た悟りをほかの人に対して説かないのは、人類にとってよろしくないことだと考えたのです。

これを実に3度も繰り返し勧請(説得)しました。

そしてついに、お釈迦様は「耳のある者たちに甘露の門は開かれた」(教えを誤解なく受け入れる者たちにあらゆる苦悩を除く最上の門は開かれた)と宣言されたのです。

初期の教え

説得されたお釈迦様は、まず始めにインドのサールナートにおいてかつて苦行を共にした5人の僧に説法をされます。

これを初転法輪(しょてんほうりん)といいます。

内容は

さまざまな物事に向かって快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、尊い道を求める者(修行者)のすることではない。また、自ら肉体的な疲労消耗(苦行)を追い求めるということ、これは苦しく、尊い道を求める者のすることではなく、真の目的(悟り)に叶わない。修行者たち、私(お釈迦様)はそれら両極端を避けた中道(ちゅうどう)をはっきりと悟った。中道は、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。その中道へ至る方法は八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)である。

これを簡素にまとめますと

真の幸福は自分以外のところにはなく、外へ求めるのは修行者のすることではない。また、幸福への道を求めるのに必要以上の努力をすることもない。必要なのは中道という考え方、それに至るための8つの勝れた正しい方法である。

中道とは、「私は正しい、あなたは間違っている」「私は悪くない、あなたが悪い」といったような両極端なものの見方をなくすことをいいます。

私たちは今まで培ってきた知識や経験をもとに、物事を分別することによって判断をしていますが、中道はその自身の持っている知識や経験(自分に都合の良い見方)の危うさをお伝えくださっています。

物事の価値や判断基準は八正道、すなわち客観的立場より生じた8つの正しい行いによってのみ実現するのです。

今回はあまり詳しく書きませんが、初めに正見(しょうけん)という方法があります。

これが正に、”客観的に物事をありのままに見ていく”ということです。

この正見の価値判断基準によって培われた行動、生活、努力、思いによって中道(悟り)は実現されていくのです。

救いへの道

厳しい修行と戒律によって悟りをひらいていく考え方を「自力聖道門」(じりきしょうどうもん)といいます。

わかりやすくいうと、自分が頑張った分だけステップアップし、悟りへの道がひらかれていくということです。

お釈迦様はご自身で修行をして悟りをひらかれました。

そして、お釈迦様がこの世におられた頃は弟子たちに正しい教えを直に指導されていました。

しかし、お釈迦様亡き後、特に日本の中世においてはその教えや信仰は徐々に廃れていく末法思想(まっぽうしそう)という考えが出てきました。

相対するように弟子たちが経典(お釈迦様の教え)を解読、研究し膨大な論文も書かれましたが、それらを庶民が読んで実践するような余裕はなく、世の中は争いが絶えずますます人々の中に不安が募っていきました。

そんな激動の時代に救いを求めた若き僧に親鸞(しんらん)という方がおられました。

阿弥陀如来

仏教では、お釈迦様以外にも薬師如来、大日如来、多宝塔如来などたくさんの仏様がいます。

お寺の本堂の奥に安置されている仏様はご本尊(ほんぞん)といい、そのお寺や宗派で特に大事にされている仏様ですが、実はそれぞれご利益という形で悟りへの道を手助けしてくださるようにはたらきかけてくださっています。

先程までは、自身が修行をし悟りへの道をひらいていくということを書いてきましたが、この数々の仏様のお力をお借りする方法もあるのです。

ただ、一定条件の修行や学問をクリアしなければならないという制約があります。

その中でもっとも制約・条件が易しいのが阿弥陀如来(あみだにょらい)です。

阿弥陀如来は『仏説無量寿経』というお経の中で「生きとしし生けるものを必ず救う」と誓われた仏様です。

浄土真宗開祖の親鸞聖人も若かりし頃、比叡山で厳しい修行に明け暮れていましたが、どのようにいしても欲を消すことが出来ずに苦悩されました。

しかし、29歳の時に師匠である法然上人(ほうねんしょうにん)を通じて阿弥陀如来の念仏(ねんぶつ)に出会われ、救い(悟り)への道を歩むことができたのです。

お念仏

親鸞聖人が出会われた教えは”阿弥陀如来という仏様のお力によってのみ救われる”(悟りへの道が開かれていく)他力浄土門(たりきじょうどもん)という考え方です。

お釈迦様が説かれた『仏説無量寿経』というお経の中に

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

【現代語訳】

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

このように誓われました。

心から信じて、浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏(南無阿弥陀仏)と称えれば悟りへの道が開かれていくというのは画期的です。

それまで教えを正しく理解する八正道、生活規範の厳守などの仏道実践でなければならなかった悟りへの道が、口から声に出して称える”南無阿弥陀仏”という六字のみで可能となったのです。

ちなみに、最後の文(唯除から後)に関して親鸞聖人は「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」の意味を

「唯除五逆誹謗正法といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」と見られました。

これは、簡単にいいますと「阿弥陀如来がどれだけ悪いことかをよく知らせてくだる親心で、きちんと叱った後に皆救われていく」ということです。

この根拠が書かれている箇所は、阿弥陀如来の”四十八願”の中でも最重要”十八願”(本願)といって、”生前”に生きとし生けるものを必ず悟りへと誘い、”生前”に信心を賜ることにより極楽浄土(悟りの世界)へ導かれると教えています。

おわりに

お釈迦様の時代より2500年という時が経ちました。

当時は、お釈迦様自身によって正しい教えが伝えられ実践されていました。

しかし、今日においてそれは容易ではなくなったことは既に述べたとおりです。

このような時代においてもお釈迦様は”念仏”という阿弥陀如来のお力を借りて悟りへの道へと歩む方法をお伝えくださったのです。

その教えは膨大な論文と修行実践の陰に隠れておりましたが、それを発見し伝えてくださったのが親鸞聖人でした。

このように、末法である現代社会においても悟りへの道を歩むことは十分可能なのです。

そのことを再確認させていただいた成道会という法縁にただ感謝をするばかりです。

以上、お釈迦様が悟りをひらかれた日でした。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。