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【第7回】はじめて学ぶ『正信偈』依釈段① 龍樹菩薩が示した「易行」の道

【第7回】はじめて学ぶ『正信偈』依釈段① 龍樹菩薩が示した「易行」の道

はじめに

依釈段は「先人の言葉に導かれる道」

これまでの連載では、『正信偈』前半(依経段)を通して、阿弥陀仏の本願がどのように起こり、どのように私たちを照らし、信を恵み、平等に救うのかをたずねてきました。

後半の依釈段は、少し趣が変わります。

ここでは、お釈迦様の教えを受け継いだインド・中国・日本の高僧(七高僧)の言葉を通して、浄土真宗が大切にしている要(かなめ)「お釈迦様が世に出られた本意」が、よりはっきり言葉にされていきます。

これは一言でいえば、「お釈迦様が本当に明らかにしたかったこと」を、インド・中国・日本の高僧方が受け取り、整理し、伝えてくださった歩みをたどる段です。

依釈段の冒頭は、次のように説かれています。

【原文】

印度西天之論家 中夏日域之高僧(いんどさいてんしろんげ、ちゅうかじちいきしこうそう)

顕大聖興世正意 明如来本誓応機(けんだいしょうこうせしょうい、みょうにょらいほんぜいおうき)

【現代語訳】

  • インド(西天)には、教えを深く論じて道筋を立てた先達がいる。
  • 中国(中夏)や日本(日域)にも、教えを受け継いで伝えた高僧方がいる。
  • その高僧方は、お釈迦様(大聖)が世に出られた本当の意(こころ)をあきらかにした。
  • そして、阿弥陀仏の本願が、私たち衆生にふさわしく届く誓いであることを明らかにした。

ここで大切なのは、依釈段が「学者の系譜紹介」ではなく、私たちの迷いの生活に直結する道案内だという点です。

たとえば、初めて行く大きな駅で、出口が何十もあるとします。


地図はあるのに、情報が多すぎて逆に迷う。

そんな経験は筆者だけではないと思います。

依釈段は、まさにその駅で、


「ここから出れば目的地に着きますよ」
「ここは行き止まりになりやすいですよ」


と、案内板を立ててくださった方々の声を聞くところなのです。

そしてその先頭に立つのが、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)です。

1. 依釈段の見取り図 七高僧は「要点を確かめてくれる人」

依釈段に登場する七高僧は、次の方々です。

● 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)

● 天親菩薩(てんじんぼさつ)

● 曇鸞大師(どんらんだいし)

● 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)

● 善導大師(ぜんどうだいし)

● 源信和尚(げんしんかしょう)

● 源空上人(げんくうしょうにん)または法然上人(ほうねんしょうにん)

ここで大切なのは、七高僧を「難しい教義の専門家」として眺めるより、迷いやすい私たちのために、肝心な点を確認し続けてくださった先達として受けとめることです。

浄土真宗の教えは、人生の不安や苦しみを「理屈で片づける」ものではありません。

むしろ、理屈や努力だけではどうにもならない現実。

老い、病、別れ、そして死に向き合う私たちに、“まかせる道”があることを告げる教えです。

その“まかせる道”が、思い込みや自己流でねじ曲がらないように、七高僧が言葉を整え、確かめ、後の時代へ手渡してくださった。

これが依釈段の大きな流れです。

2. 龍樹菩薩とはどんな人か「道を整理してくれた」先達

解説する前に、龍樹菩薩とはどんな方かを簡単に押さえておきます。

龍樹菩薩(サンスクリット語でナーガールジュナ)は、クシャーナ朝の時代(およそ2世紀ごろ)に活躍したとされる僧で、大乗仏教の思想を大きくまとめあげた人物として知られます。

インドでは北西が仏教の中心地だった時代ですが、龍樹菩薩はデカン地方(南インド)を中心に活動したと伝えられています。

中国では「竜樹」とも書かれ、日本でも非常に重んじられ、後には「八宗の祖」と呼ばれるほど、広い影響を与えました。

龍樹菩薩の代表的な著作として挙げられるのが『中論』です。

ここで説かれる「空(くう)」の思想は、その後の仏教全体に大きな影響を及ぼしました。

とはいえ、「空」は最初から難しく感じる方も多いので、この連載では、いきなり理屈に入り込むよりも、『正信偈』がなぜ龍樹菩薩を大切に讃えるのか。

その点にしぼって紹介します。

そして『正信偈』が龍樹菩薩を讃える理由は、単に“学問がすごい”からではありません。

龍樹菩薩は、私たちが仏教の道で迷いやすいところを、やさしい譬えで整理して示してくださったからです。

たとえば、道が分かれた場所に立つと、人は「こっちで合っているのか」と不安になります。

地図があっても、文字が細かすぎて読めないこともある。

そんなとき、分かれ道に「看板」が立っていたら助かります。

龍樹菩薩は、まさにその看板を立ててくださった先達です。

後にご紹介する有名な譬えが、

● 難行(陸路):自分の力で険しい道を進む

● 易行(水道):船に乗って渡してもらう

という言い方です。

浄土真宗が大切にする「他力の道」が、単なる気分や思いつきではなく、仏教の流れの中で確かめられ、受け継がれてきたこと。

その土台を、龍樹菩薩は早くから明らかにしてくださったのだと受け取っていただけたら十分です。

※なお、龍樹菩薩の生涯については『竜樹菩薩伝』などの伝記も伝わりますが、内容には伝承的な要素も多く、細部の確定は難しいとされています。ここでは、一般に認められている範囲の理解にとどめて紹介しました。

3. 龍樹章 「難しい道」から「まかせる道」へ

依釈段の最初は、龍樹菩薩を讃える一段です。

釈迦如来楞伽山(しゃかにょらいりょうがせん)
為衆告命南天竺(いしゅごうみょうなんてんじく)
龍樹大士出於世(りゅうじゅだいじしゅつおせ)
悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)
宣説大乗無上法(せんぜつだいじょうむじょうほう)
証歓喜地生安楽(しょうかんぎじしょうあんらく)
顕示難行陸路苦(けんじなんぎょうろくろく)
信楽易行水道楽(しんぎょういぎょうすいどうらく)
憶念弥陀仏本願(おくねんみだぶつほんがん)
自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)
唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう)
応報大悲弘誓恩(おうほうだいひぐぜいおん)

この段の背景について、次のように示されています。

かつてお釈迦様が楞伽という山で、「後の世に龍樹という者が出現し、人々に教えを告げるであろう」という予言です。

ここで大事なのは、「歴史として細部を確定する」こと以上に、親鸞聖人がこの章に託したメッセージです。

詳しくみていきましょう。

3-1. 「有無見」を破り二元論の心をほどく

お釈迦様が予言された龍樹菩薩の教え。

それは、「悉能摧破有無見」です

直訳すると、「有るか無いか」という見方を打ち破るという意味です。

ここは少し難しく見えるのですが、要点はこうです。

人は迷うと、考え方が「両極端」になりやすい。

それを仏教では「有見(ある)」と「無見(ない)」の偏り、と言います。

たとえば現代でも、似た場面がいくらでもあります。

● 「自分には価値がある」と思い込むと、他人を見下してしまう

● 「自分には価値がない」と思い込むと、何もできなくなる

● 「世の中は努力で何とかなる」と思い込むと、折れた人を責めてしまう

● 「世の中はどうせ何も変わらない」と思い込むと、希望が消える

こうした極端さは、本人を救わないだけでなく、周りの人も苦しめてしまいます。

龍樹菩薩は、その偏りを破って、仏道の見方を整えていきました。

この教えが基となって、『宣説大乗無上法』

大乗仏教におけるこの上ない教えに繋がるのです。

だからこそ『正信偈』は、龍樹菩薩を「道を整理してくれた先達」として讃えるのです。

3-2. “努力の否定”ではなく、“道の見取り図”

ここが、依釈段のなかでもとても親しみやすい譬えです。

『顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽』

● 陸路(りくろ)は、自分の足で山道(仏道)を越える旅。

● 水道(すいどう)は、船に乗って川(仏道)を渡っていく旅。

ここで誤解しやすい点があります。

「じゃあ陸路は難しくて悪い、水道が易しいから正しい」という単純な話ではありません。

大事なのは、悟りという目的地が同じでも、道の性質が違うということです。

人生にも似ています。

健康や仕事や人間関係の工夫は大切です。

地図も役に立つ。

けれども、病気、老い、別れ、死という人の力が及ばない現実が必ず来ます。

その“最後のところ”になると、どれだけ努力しても、人智では完全に越えられない。

だから仏教は、「おまえの力で乗り越えろ」と迫りません。

「この身をそのまま摂め取って見捨てない」という水道、すなわち阿弥陀仏の大悲の願い(本願)を明らかにされました。

これが、『宣説大乗無上法』この上ない教えなのです。

龍樹菩薩は、迷いの私にふさわしい道として、次の句へ導きます。

3-3. 本願を“知らされている”ことが、私の支えになる

続いて『正信偈』は、

『憶念弥陀仏本願 自然即時入必定』

と続きます。

「憶念(おくねん)」は、頭の中で必死にイメージすることではありません。

もっと素朴に言えば、「本願を聞いて生きる」ということです。

たとえるなら、夜道で小さな灯りを持つようなものです。

灯りがあるから、暗さが消えるわけではない。

でも、足元が見える。

次の一歩が踏み出せる。

本願を聞くとは、

「自分が救われるに値する人間になったから」救われるのではなく、

「救われるに値しない、この身そのまま」を目当てとして、本願が建てられたという事実を知らされることです。

更に注目したいのは、「自然」という言葉です。

信心というと、「何かを強く信じ込む」といった印象を持つ方もおられるかもしれません。

けれど真宗で語られる”信”は、本願を聞き、本願に出遇う中で、まかせる心が恵まれていく。

それが「自然(じねん)」と表現される世界です。

たとえるなら、暗い道を歩いていた人が、提灯(ちょうちん)の灯りに導かれて道が見え、ほっと息をつくようなものです。

道を照らすのは提灯の灯りであって、歩く人ではありません。

けれど、灯りを頼みとして一歩を踏み出すのは、その人自身です。

この“灯りの側が主となる”感じが、他力の譬えとして近いのではないかと思います。

文言が前後しますが、その教え(証明)が前提となり『証歓喜地生安楽』悟りという救いに繋がるのです。

4. まとめ 依釈段は「人生の地図を見やすくする」

今回のポイントを、最後に短くまとめます。

● 依釈段は、インド・中国・日本の高僧方を通して、釈尊の本意を明らかにする段

● その先頭に龍樹菩薩が置かれるのは、迷いの構造を整理し、道筋を示したから

● 『正信偈』は、難行(陸路)と易行(水道)という譬えで、私たちにふさわしい道を指し示す

● そして「弥陀の本願を憶念せよ」と勧められ、南無阿弥陀仏を称える生活『唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩』へと導く

● その果報として、悟りへの境地『証歓喜地生安楽』に至る

5. 次回予告 天親菩薩へ

次回は、龍樹菩薩につづく 天親菩薩の段へ進みます。

依釈段はここから、先達の言葉が“DNAのような連鎖”として繋がり、阿弥陀仏の本願の確かさが証明されていきます。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。