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自己肯定では癒えない心へ─浄土真宗が語る本当の「安心」とは

自己肯定では癒えない心へ─浄土真宗が語る本当の「安心」とは

幸教寺ブログ 新年号

年が改まり、新しい暦を手にすると、誰しも「今年こそは」と心を整えたくなるものです。


けれども、私たちの日常は忙しく、悩みや課題が完全に消えることはありません。


むしろ、願いとは裏腹に心は落ち着かず、迷いや焦りに揺さぶられることも多いでしょう。

仏教は、人生の指針、心の拠り所として、迷いを転じて悟りを開くことを伝えてきました。

そこで、仏教の中でも浄土真宗では「安心(あんじん)」心のよりどころや落ち着きをどのように見てきたのでしょうか。

ここでは、宗祖親鸞聖人の著書『正信偈』の前半部分(依釈段)を基に、2025年を生きるための手がかりを探ってみたいと思います。

※なお、『正信偈』の御文は順不同にて記しております。

1. 「安心」とは、問題が無くなることではない

浄土真宗の「安心」とは、

”煩悩が消える”ことでも、”悩みのない人間になる”ことでもありません。

『正信偈』にはこうあります。

「邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」

(じゃけんきょうまんあくしゅじょう、しんぎょうじゅじじんになん、なんちゅうしなんむかし)

「煩悩に支配された私たちが、如来のはたらきを疑いなく受け入れることは、きわめて難しい。この上なく難しいことである。」

親鸞聖人は、私たちが「煩悩具足の凡夫」であることを明確に受け止められました。

● 欲もある

● 怒りもある

● 嫉妬もある

● 正しいと思い込む慢心(憍慢)もある

こうした心の動きは、どれだけ年が明けても「消える」ことはありません。

しかし、だからこそ、阿弥陀仏の本願があるのだと親鸞聖人は示されました。

2. 阿弥陀仏が本願をおこされた理由──凡夫のために

『正信偈』には、阿弥陀仏の本願がどのように起こされたかが説かれています。

「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方」

(ほうぞうぼさついんにじ、ざいせじざいおうぶつしょ、とけんしょぶつじょうどいん、こくどにんでんしぜんあく、こんりゅうむじょうしゅしょうがん、ちょうほつけうだいぐぜい、ごこうしゆいししょうじゅ、じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

なぜ阿弥陀仏はこの上ない願いである”四十八願”をおこされたのか。

「阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者だった頃、師匠である世自在王仏の所で、悟りをひらかれた仏がたの住まう浄土をたくさんご覧になられ、このうえなく勝れた願いを建てられ世にも稀なる誓いをたてられた。その願いと誓いを成就(達成)されるため五劫(ごこう)という途方もない時間をかけ、誰でも修めることのできる行である名号を世界へ聞こえさせようとされた」

すなわち「南無阿弥陀仏」という名号を、本願(根本)に置かれ達成されたのです。


それは、

● 欲の深い者

● 怒りやすい者

● 心の弱い者

● 慢心に陥る者

● 正しい道を見失う者

そんな 煩悩具足の私たちを救うためでした。

親鸞聖人自身も『歎異抄』(たんにしょう)の「後序」に「ひとえに親鸞一人がためなりけり」といわれております。

つまり「安心」とは、

私が強くなることではなく、弱い私が阿弥陀仏に抱かれている“確かさ”を知ること。

ここに浄土真宗の「安心」があります。

3. 信を得た人のよろこび──“無碍の一道”に入る

正信偈は続けて、信心を得た者のあり方をこう讃えます。

「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣 一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」

(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき、そくおうちょうぜつごあくしゅ、いっさいぜんあくぼんぶにん、もんしんにょらいぐぜいがん、ぶつごんこうだいしょうげしゃ ぜにんみょうふんだりけ)

「善人も悪人も、どのような人でも阿弥陀仏より信心を得た人は、心からのよろこびに満たされ、迷いの生を超える。その姿は清らかな白蓮華(分陀利華)のような人とお釈迦様はおほめになる。」

信心を得ても、煩悩が消えるわけではありません。

しかし、煩悩に振り回され続ける人生に、はじめて“方向””目標”が与えられます。

親鸞聖人はこれを『歎異抄』において”無碍の一道(むげのいちどう)”と言われました。

「一切が往生の障りとならない道」です。

● 迷いのまま

● 弱さのまま

● 煩悩のまま

それでもなお、阿弥陀仏の本願によって、必ず浄土に生まれるという「確かな行き先」が定まる。

ここに、浄土真宗の安心を得た私たちの「安心」があります。

4.慢心が智慧を曇らせる──新年に気をつけたいこと

私たちはともすると、日常の中で「わかっているつもり」になり、自分の力で判断し、自分の価値観だけで生きていると思い込みがちです。

親鸞聖人は、その心を”邪見憍慢”と呼びました。

● 自分のものの見方に固執すること

● 自分は正しいと思い込み、人を見下す心

この心が強くなると、いくら学んでも、努力しても、真実の智慧(法)に触れられなくなりますし、日常生活にも強く影響します。

慢心は、阿弥陀仏の大いなるはたらきを遮り、“受け取る私の側” を曇らせてしまう”心のはたらき”だと示されます。

このことを『正信偈』では次のように表現します。

「常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」

(じょうふしんじつしんじんてん ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん)

「つねに真実の信心を貪りや怒りといった煩悩の雲が覆うとも、それはちょうど、日光が雲や霧に覆われたようなもの。しかし雲霧の下は、明るく闇はない」

阿弥陀仏のお慈悲は常に照らし続けており、それを妨げているのは”私が勝手にかけてしまった疑いの雲なのだ”と語っているのです。

たとえ空一面を雲が覆っても、その上では太陽が輝き続け、世界にはひとかけらの闇さえありません。

同じように、煩悩具足の私がどれほど曇っていようとも、阿弥陀仏の光明は届き続けている。

ゆえに親鸞聖人は、「邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」と示されました。

上記でも見たように「慢心を抱えた私が、まことの信をいただくことは、この上なく難しい」という意味です。

新年は気持ちが高まりやすい時期だからこそ、次のことを心に留めたいと思います。

● 成功しても慢心しない

● 他人を責めるより先に自分の行いを内省する

● 「分かった」と思ったところから見直す

● 心の雲霧(怒り・不満・嫉妬)に気づく

慢心が大きいほど、智慧は見えなくなる。

これは、阿弥陀仏の本願を聞く私たちへの大切な注意点です。

しかし同時に、“難い” のは阿弥陀仏の光が弱いからではなく、曇らせている私自身の心のあり方であるということも明らかになります。

5. 浄土真宗の「安心」は日常をどう整えるか

安心とは、

● 積極的な自己肯定

● 啓発的な成功論

これらではなく

「この私のまま救われる」という、”如来のはたらきを信じる心”のことです。

2025年を歩むとき、私たちが大切にしたいのは次の3点です。

① 煩悩を否定しない

怒り・嫉妬・弱さ、それらを無理に消そうとせず、「これが私であった」と認める。

② 如来の本願に照らされて生きる

うまくいくときも、いかないときも、南無阿弥陀仏の本願のはたらきに照らされていると感じながら歩む。

③ 他者を「縁」として生きる

自分を支えてくれる人、見守ってくれる人を、そうではないことも”ありがたい縁”として受けとめる。

6. おわりに「安心」とともに歩む一年に

安心とは、問題のない人生を手に入れることではなく、問題のある人生を生き抜く“力”を頂くことです。

その力とは、私の努力によって得るものではなく、

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」

(のうほついちねんきあいしん ふだんぼんのうとくねはん)

「阿弥陀仏のはたらきによって、煩悩のままに悟り(安心)への道が定まる」という教えに裏打ちされています。

2025年も、迷いながら、悩みながら、それでもはたらき続けてくださっている阿弥陀仏に

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)

「限りない命の阿弥陀仏に帰命し、思いはかることのできない光の仏にお任せいたします」

このお心とともに歩んでまいりましょう。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。