BLOG ブログ

除夜の鐘と108の煩悩:浄土真宗の視点から見る“煩悩を断たずに生きる”という教え

除夜の鐘と108の煩悩:浄土真宗の視点から見る“煩悩を断たずに生きる”という教え

除夜の鐘は何のために?

──108の煩悩と、浄土真宗が「鐘を撞かない」理由

12月に入り、街にクリスマスとお正月の雰囲気がまざり合う頃になると、「今年ももう終わりか」と、少ししみじみした気持ちになります。

年の瀬の風物詩といえば 除夜の鐘

その音を聞くと、どこか胸がそわそわしてくるのは、昔から「大晦日」が私たちの暮らしに深く根付いてきたからでしょう。


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。


古典の一節が思い起こされますが、鐘はもともと “時を告げる道具” として寺に伝わりました。

本記事では、除夜の鐘の歴史と108の意味、そして浄土真宗が「除夜の鐘を撞かない」理由を丁寧に紐解いていきます。

1. 梵鐘の役割と「除夜」という言葉

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。

『平家物語』の冒頭にも登場するように、鐘の音は古くから「無常」を象徴する響きとされてきました。

もともと梵鐘(ぼんしょう)は、

● 朝夕の時刻を知らせる

● 法要の始まりを合図する

● 集落や寺内に知らせを伝える

といった、”「時」と「場」を告げる方法”でした。

「梵」とはサンスクリット語 ブラフマン の音写で、清浄・聖なるものを意味します。

仏教伝来と共に日本へ伝わり、やがて大晦日に撞かれるようになっていきます。

「除夜」の「除」には、「はらう・きよめる・古いものを去り新しい年を迎える」という意味があり、旧暦では大晦日は”冬から春へと季節が切り替わる節目の日”でした。

陰から陽へと世界が移る「境目の夜」に、厄や穢れをはらい、新しい年の安寧を願ったのです。

2. 除夜の鐘の歴史と京都の名鐘

除夜の鐘の起源は中国・宋代にさかのぼるといわれ、日本には鎌倉時代、禅宗寺院を通じて伝わったと考えられています。

その後、室町〜江戸時代にかけて村落共同体の行事として広まり、大晦日に百八つ撞く風習が定着していきました。

京都や奈良には有名な鐘が多くあります。

● 東大寺(奈良)・知恩院・方広寺…「日本三大梵鐘」

● 神護寺・平等院・三井寺…「日本三名鐘」

特に知恩院の大鐘は、僧侶が大綱・小綱を十数人がかりで引き、「エーイ、ヒトーツ、ソーレ」という掛け声とともに打ち鳴らすことで知られています。

一方で、近年は住宅地の環境や騒音問題もあり、鐘の音量や回数を工夫したり、一般参加を制限する寺院も増えています。

梵鐘は、今も「伝統」と「現代社会」との間で、あり方を模索し続けているとも言えるでしょう。

3. 108の煩悩とはなにか?

除夜の鐘といえば「百八つの煩悩」。

では、その「108」はどう数えられているのでしょうか。主な説を簡単に触れておきます。

(1)六根 × 三種 + 六塵 × 三受 × 三世

六根:眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)・意(意識) 

三種:好(好き、快い)・悪(嫌い、不快)・平(どちらでもない)

六塵:色(視覚の対象、形や色彩)・声(聴覚の対象、音)・香(嗅覚の対象、匂い)・味(味覚の対象、味)・触(触覚の対象、触感)・法(意識・思考の対象、概念や真理)

三受:楽(楽しい、快い感覚)・苦(苦しい、不快な感覚)・捨(苦でも楽でもない、どちらでもない感覚 )

三世:過去・現在・未来

これらを掛け合わせ・足し合わせ”「あらゆる感覚と心の動きが煩悩となる」”ことを108で象徴した考え方です。

(2)四苦八苦の語呂合わせ

● 四苦(生・老・病・死)→ 4×9=36

● 八苦(代表的な苦しみ8つ)→ 8×9=72

● 合計 36+72=108

数字遊びではありますが、「人生のあらゆる苦しみを数で象徴した」とも言えます。

(3)一年の区分から

● 12ヶ月

● 24節気(立春、夏至など)

● 72候(24節気を、さらに3つに分けた72の候(「初候」「次候」「末候」)

12+24+72=108。

一年の移ろいをそのまま「迷いの多さ」と重ねた数え方です。

いずれも、”「人間の心は、これほど多くの迷いに振り回されている」”ことを示す象徴として108が語られてきました。

4. 浄土真宗はなぜ除夜の鐘を撞かないのか─「煩悩を断たないまま涅槃を得る」という視点

ここからが、浄土真宗本願寺派として特にお伝えしたいところです。

多くの寺院では、「108の鐘を撞いて、108の煩悩を1つずつ落としていく」という意味づけで除夜の鐘が語られます。

しかし 本山本願寺では、除夜の鐘は行っていません。

幸教寺も同じ立場に立ち、年越し行事としての除夜の鐘は実施していません。

その背景には、「煩悩を消す」という発想そのものを根本から問い直す教えがあります。

◆ 正信偈の一節

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

親鸞聖人が著された『正信偈』の一節です。

意味をやさしく言い換えると、

「阿弥陀仏のはたらき(本願)によって、たった一念のよろこびの心がおこされたなら、煩悩を断ち切ることなくして涅槃(さとり)を得る。」

ということになります。

ここで大事なのは、

● 「能発」=私の努力ではなく、阿弥陀仏のはたらきによって起こされる心

● 「不断煩悩」=煩悩を断ち切らないまま

● 「得涅槃」=そのまま涅槃・浄土に至る身となる

という三つのポイントです。

浄土真宗では、”煩悩を消し去ることが人生の目的ではない”と受けとめます。

親鸞聖人は、ご自身も含めて人々を

「煩悩具足の凡夫」や「煩悩成就の凡夫」と呼び、「人間とは、煩悩のかたまりそのものだ」と見つめられました。

ですから、「108の鐘を撞いて煩悩をきれいに消しましょう」という考え方そのものが、真宗の立場からすると、少し方向が違うわけです。

5. 人生の目的は「無碍の一道」

親鸞聖人は、正信偈のこの一節を通して、”人生の目的”をこう示されたと受けとめられています。

「能発一念喜愛心」

阿弥陀仏の本願を疑いなくよろこぶ心が起これば、

「不断煩悩得涅槃」
煩悩を断ぜずして、そのまま涅槃・浄土に到る身となる。

この「涅槃を得た身」のあり方を、親鸞聖人は 「無碍の一道(むげのいちどう)」 とも表現されました。

念仏者は無碍の一道なり(『歎異抄』)

「無碍」とは、”どんなことも往生のさわりとならない世界”という意味です。

● 煩悩があるからダメ

● 欠点があるからダメ

● 今年もこんな自分で終わってしまった

そう自分を裁きたくなる私たちに対して、阿弥陀仏の本願は「そのままのあなたを、往生成仏へと導きつづけている」と告げてくださる。

そのことを、親鸞聖人は 「無碍の一道」 という言葉で讃嘆されました。

除夜の鐘で「煩悩を消そう」とするのではなく、煩悩を抱えたまま歩む私が、すでに光のはたらきの中に抱かれているという方向転換が、浄土真宗の年越しの味わいです。

6. 煩悩は変わらない。でも、「行き先」が変わる

ここで、よく聞かれる問いがあります。

「阿弥陀仏に救われたら、人はどこが変わるのですか?」

親鸞聖人のみ教えでは、大きくこう整理されます。

● 煩悩そのものは「不断」なので変わらない

しかし、

● 「いつ死んでも浄土往生まちがいなし」という行き先がハッキリする

つまり、”心の中の「欲・怒り・ねたみ」がゼロになるわけではない”のです。

むしろ、変わらない現実の自分に驚かされ続けます。

それでも、

「この私の行き先は、すでに阿弥陀さまの浄土に定まっている」

という確かなよりどころをいただくことを「得涅槃」と味わっていくのが真宗の信心です。

飛行機にたとえるなら、

● 政治・経済・医療・科学…は「どう飛ぶか」「どれだけ快適に飛ぶか」を助けるもの

しかし、人間にとって本当に不安なのは

● 「どこに降りるのか(行き先)」がわからないこと

生きてきたこの人生の終着点がどこか?

死んだらどうなるのか?

そこがわからないからこそ、心の底に不安が残る。

阿弥陀仏の本願に出会うとは、”「どこに降りるのか」が確かになる”ことだ、という味わい方もできます。

7. 除夜の鐘の代わりに──真宗の「年越しのこころ」

上記のように浄土真宗本願寺派では、除夜の鐘で「煩悩を払う」という行事はしません。

その代わり、一年を通して聞法を重ね、「煩悩具足の我」を照らしてくださる光明に出遇っていくことを大切にしてきました。

108の鐘を撞いて煩悩を消すのではなく、108の煩悩に振り回されている自分の姿を、そのまま阿弥陀仏の前にさらしていく。

その阿弥陀仏が私を抱く光を「無量光・無量寿」とあらわし、正信偈には次のように詠われています。

必至無量光明土 諸有衆生皆普化(必ず無量光明の浄土に至らしめ、あらゆる衆生をあまねく教化する)

「煩悩をきれいにしてから救われる」のではなく、煩悩の只中にある私を、そのまま照らし、抱きしめて離さないはたらき。

その光に出遇っていくところに、真宗の年末年始の味わいがあります。

8. おわりに──鐘の音の有無を超えて

除夜の鐘は、日本の美しい文化であり、その響きに心を寄せることは、とても尊いことだと思います。

ただ、浄土真宗本願寺派に属する幸教寺としては、

● 「108の煩悩を打ち消すための儀式」としては鐘を撞かない

● むしろ、煩悩を断ちきれない私のままに、救いがはたらいている

という教えを大切にして、年越しを迎えたいと考えています。

煩悩だらけのまま、新しい年を迎えてよいのか?

その問いそのものを抱えた私が、すでに阿弥陀仏の光の中にある。

そのことを、ともに味わう年の瀬であればと願っています。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。