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【第5回】 依経段④ 摂取不捨の光明 「雲霧の下は明無闇」の世界

【第5回】 依経段④ 摂取不捨の光明 「雲霧の下は明無闇」の世界

(『はじめて学ぶ正信偈』連載 )

はじめに──これまで学んできたことの整理


これまでの第1回〜第4回では、依経段を学び進めてきました。

これまでの要点をあらためて整理いたします。

第1回目の内容

  • 『正信偈』とは何か
  • 依経段の中心思想
  • 「救い」「一念」「安心」の意味

第2回目の内容

  • 法蔵菩薩は、あらゆるいのちを救うために誓いを建てた
  • 長い時間をかけて「すべての人が救われる道」を考え抜いた
  • その結果、名号(南無阿弥陀仏)を救いの中心に置いた
  • 阿弥陀仏の光は、迷いの深い人ほど照らす
  • 救われるとは、「煩悩の私を照らし続ける光に気づくこと」

第3回目の内容

  • 「一念喜愛心」は、阿弥陀仏の本願に“疑いが晴れた”心のめざめ
  • 「不断煩悩得涅槃」は、煩悩の消滅ではなく“救いの確かさ”をあらわす
  • 仏の光は雲(煩悩)に遮られても輝きを失わない
  • 信心を得た人は、煩悩のただ中で、他者を思いやる心が育つかもしれない

第4回目の内容

  • 凡聖逆謗斉廻入 凡夫も聖者も、五逆も誹謗も、すべて本願に回心しさえすれば救われる。
  • 悪人正機「仏に背いてきた私」こそが、阿弥陀仏の救われる存在。
  • 唯除五逆誹謗正法 “重罪”の提示は、むしろすべての人が救われると知らせるための大悲。
  • 如衆水入海一味 川の水が海に入るように、どんな違いも本願の中で溶け合う。

今回の内容

『正信偈』の中でもとくに多くの方が心を動かされる部分──

  • 摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)
  • 已能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)
  • 貪愛瞋憎之雲霧(とんあいしんぞうしうんむ)
  • 常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)
  • 譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ)
  • 雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)

これらの一連の句を取り上げます。

今回伝えたいことは大きく3つです。

① 阿弥陀仏の「光明」のはたらきは、迷う者を捨てない

仏の光明がどのように私を照らしつづけ、摂め取るのか。


『大無量寿経』や『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)の言葉を参照しながら解説します。

② 信心を得ても“煩悩はそのまま”という深い人間観

親鸞聖人の『高僧和讃』(こうそうわさん)の一首を引用し、信心とは「煩悩が無くなる」ということではなく、“煩悩のまま光に抱かれて生きる道”だということを明らかにします。

③ 努力や修行は「救われる条件」ではなく、「恵まれた者の自然な振る舞い」

『歎異抄』第四条を引用し、真宗における「慈悲」と「実践」の意味を整理します。

阿弥陀仏の「光明」と「摂取不捨(摂め取って捨てない)」を学んでいくと、“安心(あんじん)”とは何かがゆっくりと見えてきます。

それでは本文に入ります。

※これまでの『はじめて学ぶ正信偈』連載は最下部にリンクを貼っております。

1. 光明に摂め取られ、決して捨てられない

『正信偈』の中心句のひとつです。

摂取心光常照護

【現代語訳】

「阿弥陀仏の智慧の光は、私たちの心を摂め取り、どこにあっても絶えず照らし護ってくださる。」

● 『大無量寿経』が説く「十二光」のはたらき

阿弥陀仏は「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」とも呼ばれますが、その智慧と慈悲のはたらきは “光” として示されます。

それを象徴するのが、「十二光」です。

これらは“数の12”というよりも、

”人知を超えるはたらきを象徴的に12種で表した”と理解するとよいでしょう。

※詳しくは【第2回目5章】で説明しております。

阿弥陀仏の光は、

「ここに届く・届かない」という差別や条件がありません。

● 『観無量寿経』真身観(しんしんかん)には、

この光のはたらきを端的に示す重要な言葉があります。

【原文】

光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨

(こうみょうへんじょうじっぽうせかい ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)

【現代語訳】

「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」

“摂取して捨てない”

これが真宗の救いの核心です。

● 真宗では、仏に「近づく」のではない

多くの宗教では、

・修行する
・清らかになる
・心を整える

という“努力の積み重ね”を通じて「仏へ近づく」道が説かれます。

しかし浄土真宗ではその逆。

仏がこちらへ降りて来て、光で包み、抱え取り、決して離さない。

阿弥陀仏の光とは、

「弱い者」や「迷い続ける者」を照らすために差し向けられた光なのです。

2. 無明の闇は破れても、雲霧は晴れない

続く句を見ていきます。

已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧

【現代語訳】

「すでに無明の闇は破れているが、貪りと怒りの雲霧はなお覆う」

つまり、

● 信心をいただいたとき、無明(根本の迷い)は破られる

● だが、煩悩はそのまま残る

ということです。

親鸞聖人はこれを『高僧和讃』でこう述べられています。

【原文】

「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」

(『高僧和讃』源信讃より)

【現代語訳】

「煩悩によって心の目が曇り、摂取の光を見ることはできなくても、阿弥陀仏の大悲は少しも怠らず、常にこの私を照らし続けている」

親鸞聖人は「信心を得たら清らかになる」などとは決して言いません。

むしろ、

● 信心を得るとは、自分がどこまでも“煩悩具足”であると照らされること

● だからこそ、なおさら光明のはたらきがありがたいと気づくこと

そこに真宗の深さがあります。

3. 信心はいつも雲に覆われている

『正信偈』はこう続きます。

常覆真実信心天

【現代語訳】

「真実信心の天は、いつも雲霧に覆われている」

”信心をいただいたのに迷ったり落ち込んだりする”と誤った解釈をして悩む方がいます。

しかし親鸞聖人は、

”それこそが人間の真実である”と説かれます。

・嫉妬する
・怒る
・比べる
・欲が出る
・他人の目が気になる
・自分を責める

こうした感情は“信心が弱い”のではなく、

”人間として自然な姿”なのです。

そしてそれらの雲霧は、信心そのものを壊すことはありません。

4. 雲の上では太陽が輝いている

今回の学びの中心句です。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

【現代語訳】

「たとえば日光が雲や霧に覆われるようなもの。雲霧の下には明るさがあり、闇はない」

親鸞聖人は、光明と煩悩の関係を“天気”のように譬えます。

● 曇っていても、太陽が消えたわけではない

曇りの日、私たちは「太陽が存在しなくなった」とは思いません。

ただ見えないだけです。

同じように、

・心が落ち込んでいる

・何も信じられない

・自分が嫌になる

そんな状況でも、

”光明は確かに届き摂取不捨は揺るがない”

ということを、この譬えは教えています。

5. 努力や修行は「救いの条件」ではなく、「恵まれた者の自然な振る舞い」

『歎異抄』第四条には、次の言葉があります。

【原文】

「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲とは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。」

【現代語訳】

「慈悲について、自らの修行(努力)によってこの世で悟りを開く方法(聖道門)と、阿弥陀仏の本願によって、悟りがひらかれていく方法(浄土門)では違いがあります。」

・聖道門の慈悲とは、

「すべてのものを哀れみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救い遂げることは、きわめて難しいことです。」

・浄土門の慈悲とは、

「一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。」

「この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲(聖道門)は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心(浄土門)なのです。」

● ここから導かれる結論

・人間の慈悲(聖道門)には限界がある

・しかし仏の慈悲(浄土門)は限りがない

・だから念仏を申すことが、最も慈悲の実践となる

つまり、

“救われるための努力ではなく、救われた者が自然に示す生活”

これこそが、”真宗の実践、念仏者の生き方”

ということです。

6. 浄土の慈悲に生きるとは【第5章補完】

よく、このような質問を受けます。

阿弥陀仏の光明に照らされているのであれば、

・進んで善いことをしなくてもよいのではないか?
・人助けは自力ではないか?
・努力は無駄か?

この質問を受けて重要なポイントをお伝えします。

仏教の根本にある教え

仏教の根本には、

・諸行無常(しょぎょうむじょう)

「あらゆるものは常に変化し、変わらないものは何一つない。」

・諸法無我(しょほうむが)

(確かな主体は存在しない)

という、私たちの力ではどうにもならない世界の道理が説かれています。

病気、老い、別れ、死、災害、他者の心。

人生の根本に関わる事柄のほとんどは、人間の努力や善意だけではコントロールできません。

この「思い通りにならない世界」に生きているからこそ、私たちは互いに支え合い、助け合いながら生きています。

そこから生まれるのが、

・ボランティア

・福祉

・看護や介護

・日常のささやかな思いやり

これらは尊い営みであり、仏教も決して否定しません。

仏教の基礎的な教えに関しては【】内ブログをご参照ください。

なぜ「浄土の慈悲」が説かれるのか

しかし親鸞聖人は、ここで立ち止まって問い直されました。

「人間の善意や努力は、本当にすべての苦しみを救いきれるのだろうか。」と。

どれほど思いやりをもっても、

・すべての人を助けきることはできない

・助けたいと思う心そのものが、怒りや偏りを含んでしまう

・善を行おうとするほど、自分の限界に突き当たる

この現実から、親鸞聖人は目を背けませんでした。

だからこそたどり着かれたのが、「浄土の慈悲」 です。

『歎異抄』第四条が示す決定的な違い

『歎異抄』第四条では、慈悲のあり方がはっきりと区別されています。

聖道門の慈悲は、

・人間が努力して行う慈悲

→ 思う通りに助けきることは、きわめて難しい

浄土門の慈悲は、

・阿弥陀仏の本願に生きる慈悲

→ 念仏して仏となり、限りなく衆生を利益する道

ここで大切なのは、

”「今すぐ善い人になれ」と言われていない”という点です。

むしろ、

・自分の善意の限界を知ること

・助けたいのに助けきれない自分を知ること

・それでも見捨てられていないと知らされること

そこに、真意があります。

努力は「条件」ではなく「結果」

ですから第5章でお伝えしたかったことは、

努力や人助けは、

”救われるための条件ではなく、すでに阿弥陀仏に摂め取られている身として自然にあらわれてくる振る舞い”

と受けとめられます。

自分が救われるために善を積むのではなく、

”救われている事実に照らされて、結果として人と関わっていく”

それが、親鸞聖人が示された「浄土の慈悲に生きる」という姿なのです。

7. まとめ 雲霧の下にある明るさ

今回の内容を整理します。

・阿弥陀仏の光は「摂取不捨」として常に働き、捨てることがない

・信心を得ても煩悩は無くならない(煩悩具足のまま)

・しかし煩悩が信心を壊すことはない

・曇っていて太陽が見えなくても、光は確かに届いている

・真宗の実践は“救われるため”ではなく、“救われた人の自然な姿”

どれほど心が曇っていても、光明は絶えずあなたを照らし、摂め取ってくださっている。

その事実こそが「真宗の安心(あんじん)」である。

次回予告(第6回・依経段の締めくくり)

次回は依経段の締め括りとなる

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

これらを中心に、

・信心を得たときの「よろこび」とは何か?
・なぜ“横超”と言うのか?
・五悪趣を超えるとはどういうことか?

丁寧に解説します。

依経段全体が一本につながる重要な回になります。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

【第2回】依経段① 法蔵菩薩の物語と十八願のこころ

【第3回】依経段② “煩悩をもったまま救われる”とはどういうことか

【第4回】依経段③  阿弥陀仏の救いは、なぜ「平等」なのか

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。