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【正信偈総集編】はじめて学ぶ『正信偈』なぜ今も、私たちの心に届くのか

【正信偈総集編】はじめて学ぶ『正信偈』なぜ今も、私たちの心に届くのか

はじめに|『正信偈』を「唱える」から「味わう」へ

これまで連載の中で、『正信偈』を少しずつ読み進めてきました。


一句一句を追っていくと、はじめは難しく見える言葉も、少しずつつながりが見えてきます。

けれど『正信偈』の魅力は、言葉の意味が分かることだけではありません。


本当に大切なのは、この偈が、どんな願いから始まり、どこへ向かって私たちを導こうとしているのかを味わうことです。

『正信偈』は、親鸞聖人ご自身の信仰告白であると同時に、私たちへの勧めでもあります。


つまり、親鸞聖人が「私はこの道に遇いました」と喜ばれた言葉であり、同時に「どうかあなたもこの道に耳を傾けてください」と呼びかけてくださる言葉でもあるのです。

この総集編では、依経段から依釈段までを通して、『正信偈』が何を伝えたかったのかを、あらためて一つの流れとして確かめていきます。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』 シリーズのリンクは最後に添付しております。

1. なぜ『正信偈』は「帰命」から始まるのか

『正信偈』は、まず有名なこの二句から始まります。

・帰命無碍光如来 南無不可思議光

ここで親鸞聖人は、説明から入られていません。

いきなり「帰命」、すなわちおまかせします、よりどころとします、という言葉から始められます。

これはとても大事なことです。

仏教の教えは深く広く、考え始めると際限がありません。

けれど親鸞聖人は、まず「分かったら信じる」ではなく、すでに私を照らしているはたらきに出遇ったというところから始めておられるのです。

「無碍光如来」「不可思議光」とは、阿弥陀仏の智慧と慈悲のはたらきが、妨げなく、はからいを超えて、私たちに届いていることを表しています。

つまり『正信偈』は、

“私が何かを成し遂げたから始まる”のではなく、“すでにはたらいている救いに気づかされた”ところから始まる。

ここに、この偈全体の大きな方向が決まっています。

2. 『正信偈』が語る中心 本願・光明・名号・信心

『正信偈』の中心には、一貫して流れている主題があります。

それは、

・阿弥陀仏の本願

・阿弥陀仏の智慧の光明

・南無阿弥陀仏という名号

・それを受け取る信心

です。

● 本願とは

本願とは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であられたときに立てられた、”「すべての苦しみ悩む者を必ず救う」”という願い(十八願)です。

ここで重要なのは、この願いが「立派な人を救う願い」ではないということです。

むしろ、”自分ではどうにもならない凡夫をこそ目当てにした願い”です。

● 光明とは

光明とは、阿弥陀仏の智慧のはたらきです。

光は、闇を破ります。

けれどこの闇とは、単に無知という意味だけでなく、”自分が迷っていることにも気づけない状態のこと”です。

私たちは、苦しいことがあると「外の問題」ばかりを見がちです。

あの人が悪い、社会が悪い、運が悪い。

もちろんそうした面もあります。けれど、どこまで行っても、自分の内にも怒りや執着や思い込みがあり、それがさらに苦しみを深めていく。

そのことに気づかせるのが、光明のはたらきです。

● 名号とは

「南無阿弥陀仏」は、ただの音ではありません。

阿弥陀仏の本願が、私に届く形となって現れているのが名号です。

つまり、阿弥陀仏の救いは、遠い世界からのはたらきではなく、”私の口を介して現れ、はたらいている”

という意味です。

● 信心とは

信心もまた、「がんばって信じ込む心」ではありません。

『正信偈』で語られる信心は、”阿弥陀仏の本願が、まさにこの私を目当てとしていると気づかされること”です。

だから、信心は自分で作る成果ではなく、賜るもの、ご信心と味わわれます。

3. 依経段が伝えること 阿弥陀仏の願いは最初から私へ向いていた

依経段では、『大無量寿経』『観無量寿経』などの経典をよりどころにしながら、阿弥陀仏の本願がどのようなものかが明らかにされます。

ここで繰り返し示されるのは、救いの主語はいつも阿弥陀仏であるということです。

法蔵菩薩が願いを起こされ、光明が無碍に届き、名号が功徳を具して差し向けられ、凡夫はそのはたらきの中に包まれている。

この流れを見ると、私たちの側が「条件を満たしたら救われる」のではなく、”救いはすでに向こうから始まっていた”ということがはっきりします。

依経段ではまた、

・凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

などを通して、善人も悪人も、賢い人も愚かな人も、阿弥陀仏の本願の前では差別されないことが語られます。

きれいな水も、濁った水も、海に入れば一味になる。

この譬えは、とても深いです。

私たちは、人を比べ、自分を比べ、優劣をつけたがります。

けれど本願の前では、そうした差別を成り立たせているものそのものが、問い直されるのです。

4. 依釈段が伝えること 七高僧は「仏道を歩み違えないように」教えてくれた

依釈段では、時代と国境を超えて龍樹菩薩から法然上人までの七高僧が讃えられます。

ここは単なる偉人紹介ではありません。

親鸞聖人は、七高僧を通して、この教えがどう受け継がれ、どう整えられ、どう私たちに届いたかを示しておられます。

● 西域の龍樹・天親 骨格を立てる

龍樹菩薩は難行道・易行道を示し、天親菩薩は「一心」をもって浄土を願う道を整えられました。

ここで、救いの道が「自分で登りきる道」ではなく、「本願に乗じる道」として見えてきます。

● 中国の曇鸞・道綽・善導 凡夫に届く言葉へ

曇鸞大師は往相・還相を他力回向として明らかにし、道綽禅師は末法の現実に立って「ただ浄土の一門のみ」と見定め、善導大師は称名念仏を中心に据え、「仏の正意」を明らかにされました。

ここで、教えはどんどん「凡夫に届くかたち」へ近づいていきます。

● 日本の源信・源空(法然) 民衆に降りてくる

源信和尚は『往生要集』によって、末代の凡夫に念仏往生の道を示し、法然上人は「選択本願念仏」をもって、善悪を問わず凡夫に開かれた道として、念仏一つを弘められました。

七高僧の流れを通して見えてくるのは、教えがだんだん易しくなるということではありません。

むしろ、真実がますますはっきりし、その真実が、ますます凡夫の生活に近づいてくるということです。

5. 五濁悪世にある私たちに、なぜこの教えが必要なのか

『正信偈』の結びには、こうあります。

・弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪

ここで言う「極濁悪」は、五濁悪世を背景にしています。

1. 劫濁:戦乱・飢饉・疫病など、時代の乱れ

2. 見濁:邪悪な思想やものの見方の歪み

3. 煩悩濁:貪・瞋・痴が盛んになる

4. 衆生濁:人びとの資質が乱れ、教えを受け取りにくくなる

5. 命濁:いのちが軽くなり、生きる意味が見えにくくなる

これらは古い時代の話に見えて、実は驚くほど現代に重なります。

情報があふれ、不安が絶えず、怒りが煽られ、比較が強まり、心が疲れやすい。

まさに私たちは、濁りの中に生きています。

けれど『正信偈』は、ただ「世の中が悪い」と嘆いて終わりません。

そういう時代だからこそ、”自力ではなく、本願に身を任せる道が要になる”と示されるのです。

6. 「道俗時衆共同心」とは何か 僧侶だけでなく、今の私たちへ

依釈段の最後の二句はこう結ばれます。

・道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

ここが、本当にやわらかくて、力強いところです。

● 道俗

「道」は出家、「俗」は在家。

つまり、僧侶であろうと、そうでなかろうと、教えの目当ては変わらない。

● 時衆

その時々の人々。

親鸞聖人の時代の人だけでなく、もちろん現代の私たちも含まれます。

● 共同心

同じ意見になることではありません。

同じ方向に心が向くことです。

身分も立場も生活も違う。けれど、阿弥陀仏の本願におまかせするという一点で、共にうなずく。

それが共同心です。

● 唯可信斯高僧説

これは、他を否定して争えという意味ではありません。

祖師方は自分勝手な思いつきを語ったのではなく、経に依り、釈尊の本意を読み解き、それを凡夫に届く形で整えてくださった。

だからこそ、”自分の都合で切り取らず、その道筋に身を置いて聴かせていただこう”という勧めなのです。

7. 『正信偈』が私たちへ手渡すもの

『正信偈』全体を通して、親鸞聖人が伝えたかったことを、僭越ながら一つにまとめると、こうなると思います。

1. 阿弥陀仏の本願は、最初からこの私に向いていた。

2. その道を、祖師方が読み違えないように整えてくださった。

3. だから私は、もう自分の力に閉じこもらず、おまかせして歩んでよい。

これは、「何もしなくていい」ということではありません。

むしろ逆です。

自分の力だけで背負い込んでいた人生を、”本願に照らされながら生きる”ということです。

不安が消えない日もあります。

怒りが収まらない日もあります。

迷いが深くなる日もあります。

けれど、そういう日でさえ、”南無阿弥陀仏と称える道が残されている。”

そこに、『正信偈』の極意があります。

8.おわりに

『正信偈』を学ぶことは、言葉の意味を知ることから始まります。

けれど、最後に目指したいのは、「覚えた」「理解した」で終わることではなく、”自分の人生に照らして味わうこと”です。

帰命とは何か。
本願とは何か。
光明とは何か。
信心とは何か。
七高僧は何を守り、何を手渡してくれたのか。

その問いが、自分の暮らしの中で少しずつつながってくるとき、『正信偈』はただの偈文ではなく、心の支えになります。

どうかこれから『正信偈』を拝読、ご唱和されるとき、「これは遠い昔の偉い人たちの言葉だ」と思うだけでなく、“いまの私に向けられている言葉”として、少しでも味わっていただけたら嬉しく思います。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』 なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。