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【第15回】依釈段⑨ 『正信偈』の結び 七高僧の教えを「今の私」に届ける4句

【第15回】依釈段⑨ 『正信偈』の結び 七高僧の教えを「今の私」に届ける4句

前回までのおさらい(法然上人の結び:疑いと信の対比)

前回は、法然上人(源空上人)のお言葉として、

  • 「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
    迷いの世界をぐるぐる回ってしまうのは、本願を疑う心があるから。
  • 「速入寂静無為楽 必以信心為能入」
    速やかに涅槃(さとりの安らぎ)へ入る道は、ただ信心による。

という四句をたどりました。

ここで言われる「疑い」は、単に“信じるか信じないか”の話ではありません。


私たちが、つい自分の経験や損得で世界を測り、「それでコントロールできるはずだ」と思い込んでしまいます。

その自分中心のはからいが、結果として「疑い」となる、ということでした。

この流れを受けて、親鸞聖人は最後に、“では何を頼りに、この仏道を確かめるのか”を、今回の四句で結ばれます。

ここが『正信偈』全体の「締めのお言葉」です。

『正信偈』の結び「弘経大士宗師等〜唯可信斯高僧説」は、龍樹・天親から法然上人に至る七高僧が、釈尊の教えの核心(阿弥陀仏の本願)を“誤りなく受け取れる形”で私たちに手渡したことを讃える段です。

『正信偈』シリーズもいよいよ最後となりました。

僧侶か在家か、昔か今かを問わず、同じ心で本願を聞き、念仏に遇う道を確かめましょう。

1.『正信偈』該当箇所と現代語訳「伝道リレーの終結」

【原文】

弘経大士宗師等

拯済無辺極濁悪

道俗時衆共同心

唯可信斯高僧説

【現代意訳】

浄土の教えを伝え広めてくださった祖師方(七高僧)は、数え切れないほど迷い深い私たちを、必ず救いとって浄土へ導く道を明らかにしてくださいました。

僧侶も在家も、昔の人も今の人も、心を一つにして、この祖師方が示した“本願の道筋”をよく聞き、確かめていきましょう。

2.「弘経大士宗師等」 道を整えてくれた先達たち

まずは最初の一句、「弘経大士宗師等」です。

「弘経」は、文字通りなら「お経を弘める」ですが、ここで大事なのは“情報を増やす”ことではありません。

むしろ、迷いやすい私たちのために、道を整えることです。

たとえば、料理のレシピ本が山ほどあっても、初心者は迷います。

「この本は何料理が得意なのか?」「初心者でも手順通り出来るのか?」「適量とは?」と、読み違えやすい。

仏教は、まさに“教えという名の情報の海”でもあります。

お釈迦さまの教えは広大です。

けれども私たちは、悩みの真っ最中にいると、どうしても都合のいいところだけ拾ってしまいます。

「ここだけ読んで安心したい」「この言葉だけで自分を正当化したい」。

それが人間の自然な姿です。

そこで祖師方は、経の言葉に依りながら、「凡夫が救われる道筋はここだ」と、要を立ててくださった。

それが「弘経」です。

「大士」と「宗師」七高僧を二つの呼び名で讃える

次に、「大士宗師等」とは、

・大士(菩薩):龍樹菩薩・天親菩薩

・宗師(祖師):曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・源空(法然)上人

と七高僧を二つの呼び名で讃えられています。

この分け方はざっくり言うなら、

・大士は、教えの“骨組み”を整えた先達

・宗師は、その骨組みを“凡夫に届く言葉”にして伝えた先達

です。

ここまでの連載で見てきた通り、「難行か易行か」「自力か他力か」「観想か称名か」など、私たちが迷いやすいポイントを、祖師方は丁寧に整理してくださったのです。

3.「拯済無辺極濁悪」 救いの対象は“選ばれた人”ではない

「拯済」は、溺れている人を引き上げるような言葉です。

自分では上がれない。足もつかない。息も苦しい。

そのときに、手を差し伸べられて引き上げられる。

浄土真宗で語られる救いは、まさにこの方向感を持ちます。

「よし、頑張って泳ぎきれ」という話ではなく、“沈んでいる事実”を見抜いたはたらきがある、ということです。

次に「無辺」は、数えきれない・端がない、ということ。

救いの対象に「ここまで」という線が引かれていない。

ここは、きれいごとを言っているのではありません。

現実の私たちを見れば、心の濁りは本当にさまざまです。

・すぐ腹が立つ

・つい比べて落ち込む

・正しさを盾にして人を傷つける

・自分とは違う考えの人を否定する

・わかっているのに変われない

人の悩みは、時代とともに姿を変えます。

けれども、“思い通りにならない”という根っこは変わりません。

だからこそ「無辺」なのだと思います。

救われる人数が多い、というより、“人間の迷いの形が無辺”だから、救いも無辺と味わえるのです。

五濁とは?「時代の濁り」と「わが身の濁り」

「極濁悪」という言葉に出会うとき、仏教でよく語られる「五濁悪世(ごじょくあくせ)」を押さえておくと、内容がぐっとわかりやすくなります。

五濁とは、時代が下るにつれて増していく、五つの“けがれ”や“みだれ”のことです。

『阿弥陀経』や『法華経』には「五濁悪世」という言葉が見え、次の五つが示されます。

① 劫濁(こうじょく)時代の乱れ

戦乱・飢饉・疫病などが増え、世の中全体が落ち着かなくなる濁りです。

令和の世になっても戦争は各地で続いています。

また、命を奪わないにしても経済戦争というように、各国の利益追求による競争社会は誰かの犠牲の上に成り立っているといえます。

私たちの肌感覚で言えば、「なんとなく不安が晴れない」「先の見通しが立ちにくい」

そういう空気が濃くなること、と言ってもよいでしょう。

② 見濁(けんじょく)考え方の乱れ

邪悪な思想がはびこる、という言い方をしますが、現代風に言えば、「自分に都合のよい情報だけ信じる」「分断が進む」「相手を“敵”として見てしまう」

そういった“見方の歪み”が社会に広がることです。

③ 煩悩濁(ぼんのうじょく)心の毒が強まる

貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)という三毒の煩悩が盛んになる濁りです。

欲しい、腹が立つ、わかっているのに止められない。

祖師方が生きられた時代よりずっと便利になっているのに、私たちが日々味わう「心のざわつき」は絶えません。

④ 衆生濁(しゅじょうじょく)人の資質の低下

人びとの資質が下がり、教えを受け取る力が弱くなる濁り、と言われます。

これは「人間がダメになった」というより、忙しさや情報の洪水で、落ち着いて物事を深く味わう余白が失われる。

そんな状態としても受け取れます。

⑤ 命濁(みょうじょく)いのちが軽くなる

寿命が短くなる、という説明が古くからあります。

現代では寿命自体は延びましたが、「死」という現象が現代生活の中から
切り離されたことによって、

「いのちの実感が薄れる」「生きる意味が見えにくい」「心が先に折れてしまう」

そういう“いのちの重みが軽く扱われる”側面も、命濁の響きとして受け取れるでしょう。

五濁の時代認識が、浄土の土台になる

この「五濁悪世」という時代認識は、浄土教がよりどころとしてきた、聖道門/浄土門の教判(=道の分かち方)の基盤でもあります。

以前解説した道綽禅師の著書『安楽集』には、『大集月蔵経』の説に基づいて次のように示されています。

【書き下し】
「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」

【現代意訳】
(いまは末法であり、現実に五濁悪世である。ただ浄土の一門だけが、通り入ることのできる道である)

意味は明快です。

釈尊在世から時が隔たり、教えを受け取る力も弱くなった“いま”の私たちは、自力の修行で解脱を得るのはとうてい難しい。

だからこそ、阿弥陀仏の本願に身を任せる浄土門こそが道になるといわれるのです。

「世の濁り」と「わが身の濁り」は、切り離せない

五濁の話は、社会批判で終わらせるものではありません。

むしろ大切なのは、世の中が濁るとき、私の心もまた揺れやすくなる、という点です。

不安が増すと、怒りが増える。

怒りが増すと、誰かを断罪したくなる。

そして断罪しているうちに、自分の心も硬くなっていく。

こうして「世の濁り」と「わが身の濁り」は、響き合いながら増していきます。

その現実を踏まえたうえで、「極濁悪」を見据え、拯済(引き上げ、救い出す)と示されたのです。

4.「道俗時衆共同心」 僧侶だけの教えではない/時代も選ばない

五濁悪世という“時代の現実”を踏まえると、次の「道俗時衆共同心」(僧も俗も、いつの時代の人も)という呼びかけが身近に感じます。


「道俗」は、出家している人・普通の暮らしをしている人。

「時衆」は、その時々の人々。親鸞聖人の時代だけでなく、今の私たちも含みます。

「共同心」は、同じ意見になる、ということではありません。ここは誤解されやすいところです。

共同心=“同じ方向に心が向く”

つまり、「自分の都合」や「自己流」をいったん離れて、本願の呼びかけにうなずく方向へ心が向く、ということです。

たとえば、通勤電車には年齢も職業も違う人が乗っています。

でも、共通しているのは「行き先に向かう」という一点です。

浄土真宗で言う「共同心」も、まさにそれです。

性格も悩みも違うけれど、本願を聞き、念仏に遇う方向へ心が向く。

そこに「道俗時衆」の真意があります。

5.「唯可信斯高僧説」=盲信ではなく“道筋への信”

最後の一句は、「唯可信斯高僧説」です。

ここは誤解されやすいので、丁寧にいきます。

・「唯(ただ)」=排斥ではなく、立ち返り

「ただこれを信じろ」という言い方は、強く聞こえるかもしれません。

けれども、ここでの「唯」は、他を蹴落とすためではなく、私の都合で切り取らず、お経に依った“確かな筋道に立ち返りなさい”という呼びかけとして読むと筋が通ります。

私たちは、苦しいときほど自己流になります。

自己流は悪いわけではありませんが、迷いが深いほど、自己流は迷路にもなる。

だから、祖師方が整えた道筋に戻る。

それが「唯可信」のやさしさだと思うのです。

・「高僧説」=祖師方は“思いつき”で言っていない

七高僧は、自分の思想を売り出した人ではありません。

お経(教え)に依り、論(お経の解説、論文)に依り、釈尊の本意を読み解いた人たちです。

つまり、

1. 一次情報(経)

2. 精密な読み(論釈)

3. 凡夫に届く言葉への翻訳(祖師)

この積み重ねの上に、私たちの受け取り方が置かれている。

だから「信ずべし」と勧められるのです。

6.まとめ「真実の教=『大無量寿経』」

親鸞聖人は『教行信証』「教巻」で、

「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」

と明言されます。

この言葉が、今回の4句と響き合っています。

なぜなら、祖師方が「弘めた経」こそ、まさにこの『大無量寿経』であり、

その真意が「本願」であり、

そして凡夫のために“誤らず受け取れる道筋”として整えられたのが、依釈段の歩みだからです。

最後に、今日の4句を、生活の言葉に置き換えるならこうです。

・私は、教えを都合よく切り取りがちだ

・けれど、祖師方が道を整えてくれた

・だから、僧侶でも在家でも、昔でも今でも

・同じ「阿弥陀仏の本願に任せる」の方向で、確かな道筋に身を置こう

『正信偈』は、知識を増やすためだけの偈ではありません。

歴史の物語でもありますが、それ以上に、

“救いがここに届いている”という確かさを、声に出して確かめる偈だと私は受け取っています。

そしてその結びが、まさに「唯可信斯高僧説」です。

7.次回予告|『正信偈』全体の締め(最後のまとめ回)

2025年12月よりはじめた『正信偈』をはじめて学ぶ方のための連載は以上となります。

ただ、情報量が多いので連載の総まとめとして、

依経段から依釈段までを通して「正信偈が何を伝えたかったのか」を、短く一つに束ねようかと考えています。

・なぜ「帰命」から始まるのか

・なぜ「本願」と「光」と「信」を語るのか

・七高僧は何を“守り”、何を“手渡した”のか

私たちの日常にどう置くのか。

この最後のまとめで、正信偈を「わかる」から「味わう」へと

ご一緒に一歩、近づけたらと思います。

【】内、『正信偈』をはじめて学ぶ方のための連載第一回のリンクを添付しておきます。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。