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【第11回】依釈段➄ 善導大師 凡夫のためにひらかれた「称名」の道

【第11回】依釈段➄ 善導大師 凡夫のためにひらかれた「称名」の道

はじめに|道綽禅師から善導大師へ──「念仏の正意」がひらかれる

前回は、道綽禅師が「末法」の現実を直視し、凡夫が自力の修行で悟りを得ることの困難さを明らかにされた歩みをたどりました。

正法・像法・末法という時代観の中で、教えはあっても、私たちの側に「正しく修行し、悟りを得る力」が乏しくなる。

道綽禅師はその事実を自分自身の体験として引き受け、「ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」と示されました。

自力を頼みにして積み上げる道(聖道門)ではなく、阿弥陀仏の本願力におまかせする道(浄土門)こそが、末法の凡夫にひらかれた道。

ここに前回の要点がありました。

その流れを受けて、今回から登場するのが善導大師(613―681)です。

正信偈の中で「善導独明仏正意(善導ひとり仏の正意を明かせり)」と讃えられる方であり、七高僧の中でも、とりわけ“念仏の中心”を鮮やかに打ち立てた祖師として知られます。

ただし、この「独り」という言葉は、「他の祖師や、お釈迦様を否定して善導だけが偉い」という意味ではありません。

むしろ、さまざまな解釈が並び立つ中で、末法の凡夫が迷わぬように、釈尊の本意である「苦悩のただ中にいる人をこそ救う」という願いを、善導大師がいっそう明確に示された、という讃嘆です。

正信偈「善導讃」該当箇所|要旨と現代意訳

善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶつしょうい)
→ 善導大師は、お釈迦様のほんとうのお心(凡夫を救う道)をはっきり明らかにされた。

矜哀定散与逆悪(こうあいじょうさんよぎゃくあく)
→ 定善の人も散善の人も、五逆十悪の人も、みな等しく哀れみの中に包まれている。

光明名号顕因縁(こうみょうみょうごうけんいんねん)
→ 阿弥陀仏の智慧の光と、名号(南無阿弥陀仏)によって、救いが成り立つ因縁が示される。

開入本願大智海(かいにゅうほんがんだいちかい)
→ 本願という深く広い智慧の海に、開かれ、導き入れられていく。

行者正受金剛心(ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん)
→ そこに立つ人は、壊れない金剛の信心を、まっすぐにいただく。

慶喜一念相応後(きょうきいちねんそうおうご)
→ よろこびの一念が起こり、仏さまのお心とぴたりとかなうとき、

与韋提等獲三忍(よいだいとうぎゃくさんにん)
→ 韋提希夫人と同じく、三忍(よろこび・目覚め・疑いの破れ)を得る。

即証法性之常楽(そくしょうほっしょうしじょうらく)
→ そしてついには、法性の常楽(ゆるがぬ安らぎ)を証することが定まる。

【要旨】

善導大師は、定善・散善に励む人も、五逆十悪の人も含め、凡夫を哀れみぬいて、阿弥陀仏の光明と名号によって信心の因縁があきらかになることを示された。

その本願の智慧の海に入るなら、行者は壊れない金剛の信心を受け、歓喜の一念が仏意と相応し、韋提希夫人と同じく三忍を得て、ついに法性の常楽を証する。

1. 善導大師が見つめた問い 「できる修行」だけが救いなのか

善導大師(613―681)は、若くして出家され、『維摩経』『法華経』など大乗経典(教え)を学ばれました。

のちに『仏説観無量寿経』(観経)に深くうなずかれ、29歳の時に玄中寺で道綽禅師の講説に出遇われます。

当時の念仏は、心を静め、阿弥陀仏やお浄土を思い描く「観想」の修行として行われることが多く、いわば「三昧の行」(精神集中)が中心でした。

ところが、善導大師はそこに大切な問いを立てられます。

それは、末法の凡夫にとって「観想」という高度な修行が、ほんとうに“間違いのない往生の道”になり得るのか、という問いです。

善導大師は、観経の出発点が「理想的な修行者」ではなく、苦悩のただ中で叫ぶ韋提希夫人(イダイケ)の救いの求めであることを重く受けとめ、釈尊のご本意は“できる人だけ”の救いではない、と見定めていかれました。

2. 『観無量寿経』の骨格 定善十三観と散善三福

観経は、古代インドのマガダ国で起きた悲劇(阿闍世王子(アジャセ)による父王の幽閉、母・韋提希夫人の苦悩)を背景に、韋提希夫人が「憂いも悩みもない世界」を願い、お釈迦様に救いを請うところから説き起こされます。

お釈迦様は、方法を示し、浄土往生の道を説かれました。

その内容は大きく二つに整理されます。

● 定善(十三観):心を統一し、お浄土の情景や阿弥陀仏のお姿を観ずる13の方法論

● 散善(三福):日常の歩みの中で善いことを修し、浄土に向かう道(「三福」と呼ばれる福徳の勧め)

ここで大切なのは、定善(じょうぜん)も散善(さんぜん)も、どちらも一見すると「わたしが行う修行」に見える、という点です。

だからこそ、観経の読み方次第で、救いが“修行の達成度”に引き寄せられてしまう危うさがありました。

観経について詳しくは【】内動画をご参照ください。

【観無量寿経のココロ】

3. 『観経疏(四帖疏)』とは何か──「古今楷定」の意味

善導大師は観経の注釈書『観無量寿経疏』(観経疏)を著し、先行する諸師の解釈を踏まえつつ、観経の要を整え直されます。

大師ご自身はこれを「古今楷定(ここんかいじょう)」と表現されました。

これは「古い解釈を否定して自分だけ正しい」という意味ではありません。

むしろ、さまざまな説明や解釈が乱立する中で、凡夫が迷わぬように、釈尊の救いの意図(正意)を中心に据えて整理する、ということです。

親鸞聖人が正信偈で「善導独明仏正意」と讃えられたのは、この点“苦悩する凡夫を救う”という仏意を、善導大師がいよいよ明確に示された、という讃嘆にほかなりません。

4. 九品(九品往生)をどう読むか 「格付け」ではなく「救いの射程」

観経には、往生のあり方が”九品(上・中・下、各三段)”として説かれます。

ここが誤解されやすいところです。

九品(くぼん)は「上の人が偉い」という序列表ではなく、人間の現実を幅広く引き受けるための教えです。

とくに観経は、最下層の下品下生(げぼんげしょう)のような「罪悪を抱えた者」にまで、往生の可能性を開いています。

ここに観経の根本姿勢があります。

善導大師は、九品を「努力の成績」へ回収せず、阿弥陀仏の本願が、どの身にも届くことを明らかにしていかれました。

つまり九品は、「人間はさまざまだが、救いは閉じない」という、仏の大悲の射程を示すのです。

九品往生とは?(上中下×三段の一覧表)

九品は“格付け”ではなく、「どんな人の現実も救いから漏らさない」ための教えです。

ここでは難しい仏教用語避けてわかりやすく解説します。

1. 上品上生 大乗を深く信じ、菩提心を起こす人(教えに厚くうなずく)

2. 上品中生 戒を保ち、善を修する人(まじめに生きようとする)

3. 上品下生 信は薄くとも、善を求める心がある人

4. 中品上生 戒を守り、経を信じて勤める人

5. 中品中生 基本的な五戒・八戒などを保ち、善を重ねる人

6. 中品下生 善をしようとしても力が及ばない人

7. 下品上生 罪を作っても悔い、仏を念じようとする人

8. 下品中生 悪に流されつつも、教えに触れて立ち止まる人

9. 下品下生 五逆・十悪の極悪の者も、臨終に「南無阿弥陀仏」に遇えば往生の道が開かれる

※細かな表現は宗学の立場で諸説あります。

5. 五正行の要点 「称名」が中心になる理由

善導大師は往生の行を整理して、五正行を示されます(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養・称名)。

ここで決定的なのは、善導大師がとりわけ称名(南無阿弥陀仏)を“要(かなめ)”として立てられたことです。

観想や複雑な行は、能力・環境・心身の状態に大きく左右されます。

けれども称名は、どの身にも開かれています。

善導大師が称名を中心に据えられたのは、修行を軽んじたからではなく、救いを「誰もが受け取れる形」に徹底して整えられたからです。

正信偈の「矜哀定散与逆悪」は、定善・散善の人だけでなく、五逆・十悪をも抱える者にまで哀れみが及ぶことを示します。

ここに、称名の必然があります。

五正行とは?(善導大師が整理した「往生の行」)

※ポイント:五つありますが、善導大師はとくに➄ 称名(念仏)を中心(正定業) と示されます。

① 読誦(どくじゅ):浄土の経典を読む
→ 教えにふれる“入り口”になる。

② 観察(かんざつ):阿弥陀仏・浄土を観ずる(観想)
→ 理想として尊いが、誰にでも簡単とは限らない。

③ 礼拝(らいはい):仏前に礼拝する
→ からだの行として、うなずきを形にする。

④ 讃嘆供養(さんだんくよう):ほめたたえ、供養する
→ 感謝と敬いが、日々の暮らしを整える。

⑤ 称名(しょうみょう):南無阿弥陀仏と称える
→ 誰にでも開かれ、阿弥陀仏の本願にまかせる道。善導大師はここを要(かなめ)と立てる。

6. 二河白道 「行けるのは自分の力」ではなく「呼び招く声」による

善導大師の譬喩として名高いのが二河白道(にがびゃくどう)です。

向こう岸に浄土があり、こちら岸に迷いの世界がある。

その間に、火の河(水の河)があり、わずかな道が通っている。

この譬えが胸を打つのは、白道を渡る「わたし」の弱さが、徹底して描かれるからです。

火は怒り、憎しみ、水は貪り、執着、どちらも凡夫の煩悩そのもの。

渡ろうとしても恐ろしくて足がすくむ。

けれども向こう岸から「ただまっすぐ来い」と呼び招く声がある。

これが阿弥陀仏の本願のはたらきです。

つまり、二河白道が示すのは、「わたしの胆力で渡り切る」話ではなく、呼び招くはたらきに“まかせて歩む”という構造です。

ここに他力の核心があらわれます。

二河白道図については【】内リンクをご参照ください。

【二河白道図】

現代の比喩でわかる「他力」の核心

善導大師の譬え「二河白道」は、“自分の力で渡り切る話”ではありません。

不安や怒りや執着にのみ込まれそうな私が、なお歩めるのは、向こう岸から呼び招く声(本願)があるから、という譬えです。

● 火の河=怒り・憎しみ

ちょっとした一言で燃え上がる。正しさの名で人を裁いてしまう。

● 水の河=執着・不安

失いたくない、認められたい、損をしたくない…心が沈み、溺れそうになる。

● 白い道=たよりない私の一歩(でも確かな道)

立派な修行ではない。揺れる心のまま、迷いのまま。

● 向こう岸の呼び声=阿弥陀仏の「来いよ、必ず救う」

ここが要点。私の胆力ではなく、呼び招くはたらきに支えられて歩む。

現代で言えば、人生の不安(老い・病・孤独)や、心の火(怒り)や、水(執着)に挟まれながらも、「南無阿弥陀仏」という呼び声に遇うとき、道が“自分の努力”ではなく“支えられている道”に変わる、ということです。

7. 正信偈の結び 光明・名号がひらく信心と歓喜

正信偈には、善導大師の要が凝縮されています。

「光明名号顕因縁」

阿弥陀仏の智慧の光明と、名号(南無阿弥陀仏)が因縁となって、凡夫に救いが成り立つ。

「開入本願大智海 行者正受金剛心」

本願の智慧の海に導き入れられるとき、壊れない信心(金剛心)を賜る。

そして「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍」

韋提希夫人が得た無生法忍を、喜忍・悟忍・信忍として味わい直し、信心歓喜の一念が起こる。

最後に「即証法性之常楽」

この身の迷いを超えた、究極の安楽へと定まっていく。

善導大師は、観経を“凡夫の救い”として読み抜き、称名の道に釈尊の正意を明らかにされました。

だからこそ親鸞聖人は「善導独明仏正意」と讃え、私たちが迷いの只中でこそ、念仏の教えに遇うことを確かめさせてくださるのです。

8. 次回予告 源信和尚へ

次回は、日本の七高僧の一人、源信和尚(恵心僧都) を取り上げます。

源信和尚は『往生要集』を著し、「この世の迷い(苦)」をまっすぐ見つめながら、阿弥陀さまの浄土へと心を向ける道を、当時の人びとにわかりやすく示されました。

「地獄・餓鬼・畜生」といった厳しい描写で知られる一方で、その目的は恐がらせることではなく、凡夫の現実に寄り添い、念仏の道を確かにするところにあります。

源信和尚が、のちの法然聖人・親鸞聖人へどうつながっていくのか一緒に見ていきましょう。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。