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節分とは何か 民衆文化から考える

節分とは何か 民衆文化から考える

節分は、立春の前日に行われる年中行事として広く知られていますが、その背景には、古代から中世にかけての儀礼と民衆信仰が重なり合って成立した歴史があります。

節分は単独で生まれた行事ではなく、もともと宮中で行われていた「追儺(ついな)」という儀礼と、民衆の間に広がっていた呪術的・信仰的実践とが融合することで形成されていきました。

古くから季節の変わり目には、災いや不調が起こりやすいと考えられ、人々は豆まきなどの行事を通して、心身を整え、新しい季節を迎えてきました。

「鬼は外、福は内」という言葉も、そうした願いの中で生まれたものです。

しかし、浄土真宗の立場から節分を見つめ直すとき、私たちは少し立ち止まって考えることになります。

詳しくみていきましょう。

追儺(ついな)とは

追儺とは、中国由来の儀礼で、日本では平安時代以降、主に宮中で行われていました。

疫病や災厄の原因と考えられた「鬼」「悪霊」を、武器や呪文によって追い払う国家的な年中行事です。

しかし中世に入ると、この追儺の思想は次第に民間へと広がり、地域社会や家々の暮らしの中で独自の形をとるようになります。

これが、現在私たちが知る「節分」の原型となりました。

豆まきの意味

豆まきは、単なる遊びや子どもの行事ではありません。

民俗学的には、豆が呪力を持つ存在として捉えられていたことが指摘されています。

炒った豆を用いるのは、「生命を芽吹かせない」「穢れを残さない」という意味を持つためです。

また、「豆=魔を滅する(魔滅)」という言葉遊びも、後世に付加された民衆的解釈として広く定着しました。

豆まき以外にも、

● 柊鰯(ひいらぎいわし)
→焼いたイワシの頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺し、玄関先などに飾る。

イワシの生臭さ、柊の鋭いトゲ。

この二つを嫌って、鬼(=邪気・災厄)が家に入らないと考えられてきました。

民俗学的には、これは目に見えない災いを感覚的に「嫌がらせて追い払う」呪術的な工夫です。

● 恵方巻(えほうまき)
→その年の「恵方(縁起の良い方角)」を向き、無言で巻き寿司を食べることで、福を逃がさないとされます。

本来は関西地方の商家を中心に広まった比較的新しい風習で、これもまた「言葉」「方角」「行為」に意味を込める、日本的な祈りのかたちと言えるでしょう。

鬼は外にいるのか

民俗学的に見ると、節分の鬼は実在したわけではありません。

それは、

● 疫病

● 飢饉

● 不安定な社会状況

● 季節の変わり目に生じる不調

といった、人々の生活を脅かすものの象徴でした。

つまり節分とは、「外から来る鬼」を追い払う行事であると同時に、不安や災いを言葉と行為によって可視化し、共同体で受け止める儀礼だったのです。

仏教的に見る節分

仏教の立場から見るならば、鬼とは外にいる存在というよりも、私たち自身の内に起こる煩悩や迷いとして捉えることができます。

怒り、執着、妬み、不安。

そうした心の働きに気づき、立ち止まり、あらためて歩み直す。

節分は、そのための「節目」の日とも言えるでしょう。

鬼は本当に「外」にいるのでしょうか

民俗学的には、節分の鬼は疫病や災厄、社会不安などの象徴とされてきました。

けれども、仏教的にいえば、鬼を単なる外的存在として捉えるよりも、私たち自身の内に起こる煩悩の姿として受けとめます。

「してはいけない」と分かっていても、思い通りにならない心。

反省しても、また同じことを繰り返してしまう自分。

親鸞聖人は、そうした私たちを煩悩具足の凡夫と見つめられました。

凡夫であるという自覚

無病息災、国家安泰を願うことはとても良いことだと思います。

しかし、仏教(なかでも浄土真宗)では「鬼を追い出せば問題が解決する」とは考えません。

なぜなら、私たちはどこまでいっても煩悩を離れきれない存在だからです。

豆をまいても、反省しても、努力しても、完全に清らかな人間になることはできませんし、まして、天災や社会の流れをコントロールすることなど出来るわけがありません。

その現実を直視するところから、浄土真宗の教えは始まります。

節分は、「思い通りにならないものだ」と、世界のありのままの姿や凡夫である自分に気づくご縁とも言えるでしょう。

煩悩を断たずして救われる

では、煩悩を抱えたままの私たちは、どう生きればよいのでしょうか。

浄土真宗では、煩悩を断ち切ってから救われるのではなく、煩悩を抱えたまま、阿弥陀さまの本願に包まれて生きると教えられます。

「鬼のような心を持つ私だからこそ、見捨てられない」

そこに、阿弥陀さまのはたらきがあります。

節分の日に豆をまくことも、「私はまだ煩悩だらけだ」という事実に気づき、それでも生かされている身であることを、あらためて味わう機縁となるでしょう。

福は努力の成果ではない

「福は内」と言いますが、浄土真宗では、福を自分の努力で勝ち取るものとは考えません。

思い通りに生きられなくても、失敗や後悔を抱えながらでも、すでに阿弥陀さまのはたらきの中に身を置いている。

その事実に気づいたとき、「追い出すべき鬼」よりも、「見捨てられていない私」が浮かび上がってきます。

立春を迎える前に

節分は、鬼を完全に追い払う日ではありません。

むしろ、”鬼のような心を抱えたまま生きている自分を見つめ直す日”と解釈します。

そのような意味では「鬼も福も内」なのかもしれません。

煩悩具足の凡夫である私が、それでもなお生かされ、念仏申す身として歩ませていただいている。

そのことに静かに耳を澄ませながら、立春を迎えていただければと思います。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。