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【第9回】依釈段③ 曇鸞大師が明かした阿弥陀仏のはたらき

【第9回】依釈段③ 曇鸞大師が明かした阿弥陀仏のはたらき

前回のおさらい(天親章まで)

前回は、天親菩薩が『浄土論』によって、私たちが受け取りやすいように“整理して伝えた”ことを見ました。


ただ、その教えはとても深く、読み方を誤ると「結局は自分の修行で何とかする話なの?」と、難しく感じてしまうこともあります。

そこで次に現れるのが曇鸞(どんらん)大師です。

曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』を受け取りながら、凡夫の私が救われる筋道を、さらにハッキリ言葉にしてくださった方です。

その功績は、

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼(ほんしどんらんりょうてんし、じょうこうらんしょぼさつらい)

とあるように、梁(りょう)武帝が常に曇鸞大師のいる方向に向かって「菩薩」と仰がれたほど敬われた高僧です。

1. 曇鸞大師とはどんな人か

曇鸞大師(476〜542)は、中国の僧侶です。

若い頃は、当時の仏教教学(四論・仏性など)を学んだ学僧でした。

ところが人生の途中で、彼は大きく方向転換します。

そのエピソードが、

● 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦(さんぞうるしじゅじょうきょう、ぼんじょうせんぎょうきらくほう)です。

曇鸞大師は一時、自身の病気を治すために道教的な「仙経(不老長生の術)」にも関心を寄せていたとされます。

けれども仙経を学んだ帰りに洛陽という都で訳経僧・菩提流支(ぼだいるし)に出会い、「仏法にこそ生死を解脱する道がある」と示され、『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)を授かり仙経を焼き捨てて浄土教に帰依したと伝えられます。

つまり、“長生きの術”より、「生死を超える道」を選ばれたわけです。

「健康法や延命の情報を必死に集めていたけれど、ふと“死そのものを見つめ直す視点”に出会って、人生の軸が変わった」

そんな転換に近いかもしれません。

その後に、玄中寺(げんちゅうじ)を創建し、晩年ここに居住して浄土教を説かれました。

ちなみに、その後世には隋から唐代初期に道綽禅師が、唐代初期には善導大師がこの寺で浄土教を学ばれています。

2.「歩く道」から「舟に乗る道」へ

● 天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)

曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』に注釈を加えた『往生論註』(おうじょうろんちゅう)で、浄土の教えを大きく押し広げました。

ここでポイントは、「高度な菩薩行を積める人」だけの話にしなかったことです。

実際に『往生論註』では、龍樹菩薩の「難行道/易行道」=陸路と水路の喩えを引用されています。

● 報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)

とあるように、むしろ曇鸞大師は、浄土に往生する原因も結果も阿弥陀仏の誓願(四十八願)によることを明らかにされ凡夫が救われる道を前面に出します。

たとえるなら、専門家向けの難解な説明書を、誰でも読めるように翻訳してくれただけでは足りません。

「読めるようにした」だけでなく、“本願に乗れるようにしてくれた”のです。

この「乗る」とは、言うまでもなく阿弥陀仏の本願力のことです。

自分の脚力(自力)を誇るのではなく、仏の願いの舟に乗せられて渡る。

それが易行です。

3.往くも還るも、阿弥陀仏のはたらき

曇鸞大師の要点がぎゅっと凝縮された一句があります。

『往還廻向由他力』

往くはたらきも、還るはたらきも、他力の回向による。

ここでいう「往還(おうげん)」とは、往相(おうそう)と還相(げんそう)のことです。

● 往相:私たちが阿弥陀仏の浄土に往生すること(往生浄土の相状)

● 還相:浄土に往生したものが、迷いの世界(穢土)に帰り来て人々を導くこと(還来穢国の相状)

つまり、浄土に往くことだけで完結せず、還って人びとを導くはたらきまで含めて「救いの全体像」が語られているのです。

大事な箇所なので長文になりますが、丁寧に解説します。

回向とは阿弥陀仏が、功徳を「こちらへ回し向けてくださる」

「回向(えこう)」とは、字の通り「回し向ける」ことです。

真宗でいう回向は、私たちが修行をし功徳を積んで“回す”というよりも、阿弥陀仏が本願力によって、仏の功徳を私たちへ振り向けてくださることを指します。

言い換えれば、

● 私の側で「浄土に往生できる原因」をつくれない

● 私の側で「間違いなく往生する結果」を保証できない

その現実を見抜いたうえで、阿弥陀仏が

● 因(原因)も

● 果(結果)も

まとめて衆生に“回し向ける”これが「回向」です。

曇鸞大師は、『往生論註』の中で、阿弥陀仏の浄土(報土)が建立された原因も、すでに建立されたという結果も、さらに私たちが往生する原因も、往生が決定する結果も、すべてが阿弥陀仏の誓願(本願)による、と明らかにします。

だから『正信偈』も、「往還の回向は他力に由る」と言い切るのです。

「私とアナタ」、往相・還相は一つの働き

仏教では、悟りとは「私だけが助かる」ことで終わりません。

仏になるとは、自利(私が利する)と利他(アナタを利する)が一つになったはたらきです。

たとえば、お釈迦さま(私)は菩提樹の下で悟りを開かれましたが、そこで“完了”したわけではありません。

悟りの境地に閉じこもるのではなく、迷い苦しむ人びと(アナタ)のところへ赴き、教えを説き続けられました。

ここに、自利利他(私とアナタ)が一つになった仏の姿(完成形)が示されています。

この見方に立つと、「往相」と「還相」は別々の二段階ではなく、仏のはたらきとして一つの流れだと分かります。

浄土に往生したら、それきり私たちと無関係に“向こうで安住する”のではなく、”仏となって還り来て、アナタを導く”それが「還相」です。

しかし凡夫には、往相も還相も自力では不可能

とはいえ、ここが最も大切なところです。

私たち凡夫の側から見れば、

● 自分の力で浄土へ往く(往相)ことはできない

● 自分の力で迷いの人びとを導く(還相)力もない

どちらも、自力では成立しません。

だから『正信偈』は、往相も還相も「他力の回向」だと示します。

阿弥陀仏が、私たちに代わって因(功徳)を成就し、その因が生む果(往生・成仏・還来のはたらき)を、こちらへ“回し向けて”くださる。

これが「往還廻向由他力」の意味です。

ここで「他力」とは、人任せのような期待の問題ではありません。

他力とは、阿弥陀仏の誓願が現に“はたらいている力”のことです。

私たちが願ったから助けるのではなく、願うことさえ知らない凡夫を見抜いたうえで、すでに「南無阿弥陀仏」として届いている。

だから他力は、こちらの都合や状態に左右されない、と味わわれます。

4.救いの原因は、信心一つ

この曇鸞大師の他力回向の核心を、親鸞聖人は次の一句で伝えます。

『正定之因唯信心』

往生が正しく定まる因は、ただ信心一つ。

「正定の因」とは、往生が“あやふや”ではなく、正しく定まる原因のことです。

そして、その原因は「ただ信心」。

ただし、ここでいう信心は、私がつくり出す“自力の信心”ではなく、阿弥陀仏の本願によって回向される他力の信心です。

だから真宗では「ご信心」とか「信心を賜る」ともいいます。

この点は親鸞聖人の『教行信証』にも明確に示されます。

● 回向に二種の相がある(往相・還相)

● そして真宗の教行信証とは、如来の大悲回向の利益である

● ゆえに因であれ果であれ、阿弥陀如来の清浄願心の回向成就でないものはない

と押さえたうえで、「他力に乗ずべきことを聞いて信心を生ずべし」と受け止めていかれます。

5.迷いのただ中で信が起こり、生死が悟りに転ぜられる

最後に、『正信偈』はつづけて次の四句を置きます。

『惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化』

ここには、他力回向の結論が、短い言葉でぎゅっと語られています。

“煩悩だらけの私”にこそ、信が起こる

「惑染凡夫」とは、迷いと煩悩に染まった凡夫、つまり私たちのことです。

立派になってから信心を得るのではありません。

迷いのただ中のまま、信が起こる。

ここが真宗の要です。

たとえば、風邪をひいてから薬を求めるのは自然です。

“健康な人のための薬”では意味がありません。

同じように、阿弥陀仏の救いは、”煩悩が尽きない私(悪)を目当てとしている”それが「惑染凡夫信心発」です。

『歎異抄』の「悪人正機」でもこの内容が説かれていましたね。

生きる苦しみが“そのまま”転じていく

「生死」は迷いの世界、苦しみ悩むこの現実。

「涅槃」は迷いを超えた安らぎの世界です。

普通は「生死を捨てて涅槃へ」と考えますが、ここでは「生死“即”涅槃」

つまり、生死がそのまま涅槃に転じる、と言い切ります。

これは「苦しみが消えて人生が楽になる」という意味ではありません。

苦しみの現実はある。

けれど、その現実の受け止め方の土台が変わる。

自分の力ではどうにもならない生死の事実を、阿弥陀仏のはたらきの中で引き受けて生きる。

その転換を「証知(はっきり知らされる)」と言うのです。

行き先が“必ず定まる”

「無量光明土」は阿弥陀仏の浄土。

そして「必至」は、“必ず至る”です。

努力の出来・不出来で行き先が揺れるのではなく、本願のはたらきによって、往生が決定する。

だからこそ「正定之因唯信心」と続いてきた意味が、ここで結実します。

救いは“私一人”で終わらない

最後の一句「諸有衆生皆普化」は、とても大切です。

他力の救いは、ただ「自分が助かった」で閉じません。

浄土に往生して仏となるということは、やがて”衆生を導くはたらき(普化)”となって現れる。

これが還相回向の結びです。

私たちの側から見れば、「悩める一人一人を完璧に救えるほど立派ではない」のが正直なところです。

けれど、真宗が語る“導き”は、まずは大げさな話ではなく、いただいたご縁を大切にする、言葉をやわらかくする、相手の痛みに気づく。

そんな小さなところから始まっていきます。

それすらも「自分が作る善」ではなく、本願に抱かれた身に自然に現れてくるはたらきとして味わわれていくのです。

7.まとめ 

曇鸞大師は、私たちの往生を「往相」、浄土に往生して仏となり迷いの世に還って人々を導くはたらきを「還相」と示し、どちらも阿弥陀仏の本願力による「他力回向」であると明らかにされました。

ゆえに往生が正しく定まる因は、修行や功徳ではなく「ただ信心一つ」。しかもそれは私が作る信ではなく、如来から賜る信心です。

『正信偈』はその結論として、煩悩に染まる凡夫にこそ信が起こり、生死の現実が涅槃へと転じ、必ず無量光明の浄土に至り、やがて衆生を広く導くはたらきとなる、と結びます。

8.次回予告 道綽禅師へ

次回は、曇鸞大師の流れを受けて、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の章に進みます。

『正信偈』には、

● 「聖道は難しい」

● 「浄土は通入できる」

という、はっきりした言葉が続いていきます。

現代人の目線で読むと、「がんばる宗教」と「たのむ宗教」の違いが、よりくっきり見えてくる回になるはずです。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。