【第8回】依釈段② 天親菩薩が整えた「浄土への道」
前回のおさらい 依釈段は「先達のリレー」
『正信偈』の依釈段は、親鸞聖人が「お釈迦様の真意(ほんとうに伝えたかったこと)」が、歴代の先達(インド・中国・日本の高僧)によって、はっきり言葉にされてきた歩みをたどるところでした。
前回は龍樹菩薩を通して、「難行=陸路」「易行=水道」という、私たち凡夫のための“わかりやすい道案内”が示されたことを見ました。
今回は、その次を受ける 天親菩薩(てんじんぼさつ) です。
ここで『正信偈』は、ぐっと「浄土の中身(功徳)」へと近づいていきます。
1. 天親菩薩とはどんな人か 「伝えるために整理した」学僧
天親菩薩は、4世紀から5世紀頃、北インドのガンダーラ国プルシャプラ(現在のパキスタン、ペシャワール)で活躍した大乗仏教の学僧で、後世に伝わる教えを論(ろん)=整理された言葉として残したことで知られます。
ざっくり言うと、天親菩薩は「むずかしい教えを、筋道立てて理解できる形に整えた人」です。
たとえば、料理が得意な人がレシピにして人に渡せば、その人も同じ味に近づける。
天親菩薩は、まさに仏教の“大事なところ”をレシピ化した先達だと言えるでしょう。
そして浄土教にとって特に大切なのが、天親菩薩が著した『浄土論』(『無量寿経』をもとに、阿弥陀仏の浄土と往生の道をまとめた論書)です。
のちに曇鸞大師が『往生論註』として注釈し、浄土教が大きく花開く土台になっていきます。
※画像はペシャワール近郊のカイバル峠
ざっくり言うと、天親菩薩は「むずかしい教えを、筋道立てて理解できる形に整えた人」です。
たとえば、料理が得意な人がレシピにして人に渡せば、その人も同じ味に近づける。
天親菩薩は、まさに仏教の“大事なところ”をレシピ化した先達だと言えるでしょう。
そして浄土教にとって特に大切なのが、天親菩薩が著した『浄土論』(『無量寿経』をもとに、阿弥陀仏の浄土と往生の道をまとめた論書)です。
のちに曇鸞大師が『往生論註』として注釈し、浄土教が大きく花開く土台になっていきます。
※画像はペシャワール近郊のカイバル峠
「唯識(ゆいしき)」“心のメガネ”の話
天親菩薩は、一般には「唯識(ゆいしき)」の学派(瑜伽行派)を大成した人物としても有名です。
「唯識」を一言でいえば、
私たちは世界を“そのまま”見ているつもりでも、実は「心のはたらき」を通して見ている。
という気づきを深める教えです。
たとえば、私たちはみんな「心のメガネ」をかけています。
疲れている日は、同じ言葉でも刺さって聞こえる。
うれしい日は、同じ景色でも明るく見える。
つまり、世界の見え方は“心の状態”と無関係ではない、ということです。
この視点は、浄土教にとっても大事です。
なぜなら、私たちは往々にして「自分の心が整ってから」「ちゃんとできるようになってから」と考えがちですが、浄土真宗はむしろ、整わない私、揺れる私をそのまま見つめつつ、阿弥陀仏のはたらきに遇う道を語るからです。
「唯識」を一言でいえば、
私たちは世界を“そのまま”見ているつもりでも、実は「心のはたらき」を通して見ている。
という気づきを深める教えです。
たとえば、私たちはみんな「心のメガネ」をかけています。
疲れている日は、同じ言葉でも刺さって聞こえる。
うれしい日は、同じ景色でも明るく見える。
つまり、世界の見え方は“心の状態”と無関係ではない、ということです。
この視点は、浄土教にとっても大事です。
なぜなら、私たちは往々にして「自分の心が整ってから」「ちゃんとできるようになってから」と考えがちですが、浄土真宗はむしろ、整わない私、揺れる私をそのまま見つめつつ、阿弥陀仏のはたらきに遇う道を語るからです。
2. 『正信偈』天親章の該当箇所
『正信偈』において天親菩薩は、以下のように説かれています。
「天親菩薩造論説」
→ 天親菩薩は、浄土の教えをまとめた論(『浄土論』)を著して説かれました。
「帰命無碍光如来」
→ 「天親(私)は、さまたげのない光で私たちを照らす阿弥陀仏に、身をまかせて帰依します。」
「依修多羅顕真実」
→ それは自分の思いつきではなく、経典(お釈迦様の教え)にもとづいて、真実を明らかにするためです。
「光闡横超大誓願」
→ 阿弥陀仏の大きな誓いは、努力の積み重ねでは届かない迷いを、ひと息に超えさせる救いであると、はっきり示されました。
「広由本願力廻向」
→ その救いは、私の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力が、こちらへ届けられる(回向される)ことで成り立っています。
「為度群生彰一心」
→ すべての人を救うために、その道は「一心(まかせる心)」を要として示されています。
「帰入功徳大宝海」
→ 私たちは、阿弥陀仏の功徳という尽きない宝の海へ、身をまかせて入らせていただくのです。
「必獲入大会衆数」
→ そして必ず、浄土で仏道を歩む大いなる仲間の一員に加えられます。
「得至蓮華蔵世界」
→ ついには、蓮華のように清らかな悟りの世界である浄土へ至ります。
「即証真如法性身」
→ そのとき、真如(真実そのもの)・法性(法の本質)という仏の身を、すぐに悟り証します。
「遊煩悩林現神通」
→ そして、煩悩の渦巻く世界のただ中にも入り、さまざまなはたらき(自在の方便)を現します。
「入生死薗示応化」
→ 生まれては死ぬ迷いの世界にも進んで赴き、人々に応じた姿で導きを示していくのです。
この一連は、天親菩薩が著した『浄土論』(正式名:『無量寿経優婆提舎願生偈』むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)の内容を踏まえ、「本願にもとづく浄土の真実」を明らかにする部分です。
「天親菩薩造論説」
→ 天親菩薩は、浄土の教えをまとめた論(『浄土論』)を著して説かれました。
「帰命無碍光如来」
→ 「天親(私)は、さまたげのない光で私たちを照らす阿弥陀仏に、身をまかせて帰依します。」
「依修多羅顕真実」
→ それは自分の思いつきではなく、経典(お釈迦様の教え)にもとづいて、真実を明らかにするためです。
「光闡横超大誓願」
→ 阿弥陀仏の大きな誓いは、努力の積み重ねでは届かない迷いを、ひと息に超えさせる救いであると、はっきり示されました。
「広由本願力廻向」
→ その救いは、私の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力が、こちらへ届けられる(回向される)ことで成り立っています。
「為度群生彰一心」
→ すべての人を救うために、その道は「一心(まかせる心)」を要として示されています。
「帰入功徳大宝海」
→ 私たちは、阿弥陀仏の功徳という尽きない宝の海へ、身をまかせて入らせていただくのです。
「必獲入大会衆数」
→ そして必ず、浄土で仏道を歩む大いなる仲間の一員に加えられます。
「得至蓮華蔵世界」
→ ついには、蓮華のように清らかな悟りの世界である浄土へ至ります。
「即証真如法性身」
→ そのとき、真如(真実そのもの)・法性(法の本質)という仏の身を、すぐに悟り証します。
「遊煩悩林現神通」
→ そして、煩悩の渦巻く世界のただ中にも入り、さまざまなはたらき(自在の方便)を現します。
「入生死薗示応化」
→ 生まれては死ぬ迷いの世界にも進んで赴き、人々に応じた姿で導きを示していくのです。
この一連は、天親菩薩が著した『浄土論』(正式名:『無量寿経優婆提舎願生偈』むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)の内容を踏まえ、「本願にもとづく浄土の真実」を明らかにする部分です。
3. “頼み先”をはっきりさせる
天親菩薩の『浄土論』に次の一句が示されています。
「世尊我一心 歸命盡十方 無礙光如来 願生安樂國」
意訳すると、
「お釈迦様、私は心から、尽十方無碍光如来(阿弥陀仏)に帰命し、安楽国(浄土)に生まれたいと願います」
という願いの告白です。
この句で大切なのは、“私ががんばる話”から始まっていないことです。
「私はこう修行を積みます」ではなく、まず 阿弥陀仏に帰命する。
つまり、浄土の道は「自分を磨いて条件を満たす」よりも先に、頼み先(拠り所)を定めるところから始まる、と示されます。
「世尊我一心 歸命盡十方 無礙光如来 願生安樂國」
意訳すると、
「お釈迦様、私は心から、尽十方無碍光如来(阿弥陀仏)に帰命し、安楽国(浄土)に生まれたいと願います」
という願いの告白です。
この句で大切なのは、“私ががんばる話”から始まっていないことです。
「私はこう修行を積みます」ではなく、まず 阿弥陀仏に帰命する。
つまり、浄土の道は「自分を磨いて条件を満たす」よりも先に、頼み先(拠り所)を定めるところから始まる、と示されます。
4. 根拠は“経典”に置く
次に、天親菩薩はこう続けます。
「我依修多羅 眞實功德相 説願偈惣持 與佛敎相應」
ここで言われる「修多羅(スートラ)」は経典のこと。
そして「真実功徳相」は、浄土・仏・菩薩に具わる功徳(荘厳)のありさまです。
つまり天親菩薩は、
自分の思いつきで語るのではなく
お釈迦様の教え『無量寿経』に依って、浄土の真実の姿を深く受け止めて、詩として示すという姿勢をはっきりさせています。
私たちの日常で言えば、
「口コミ」ではなく「公式の取扱説明書」で確かめる、に近い。
信心とは、気分や思い込みで作るものではなく、聞法によって育まれる。
その土台を、天親菩薩は丁寧に置いてくれています。
「我依修多羅 眞實功德相 説願偈惣持 與佛敎相應」
ここで言われる「修多羅(スートラ)」は経典のこと。
そして「真実功徳相」は、浄土・仏・菩薩に具わる功徳(荘厳)のありさまです。
つまり天親菩薩は、
自分の思いつきで語るのではなく
お釈迦様の教え『無量寿経』に依って、浄土の真実の姿を深く受け止めて、詩として示すという姿勢をはっきりさせています。
私たちの日常で言えば、
「口コミ」ではなく「公式の取扱説明書」で確かめる、に近い。
信心とは、気分や思い込みで作るものではなく、聞法によって育まれる。
その土台を、天親菩薩は丁寧に置いてくれています。
5. “横超”の世界を照らし出す
『正信偈』は、天親菩薩が明らかにしたものを「光闡(こうせん)」光で照らし、はっきりさせた、と言います。
浄土の救いは、努力の延長線上にある「いつかの到達点」ではなく、本願によって“横超”する道でした(この“横超”の核心は、依経段➄でも「即横超截五悪趣」へとつながっていきました)。
天親菩薩は、その横超の内容を、抽象ではなく「功徳荘厳」として語ります。
『浄土論』では、無量寿経にもとづいて、浄土のありさまを多面的に説き、「功徳」の完成として整理していることが示されています。
これがありがたいのは、浄土を「遠い理想郷」にして終わらせず、“阿弥陀仏のさとりとは、どういう世界観なのか” を、私たちの言葉の届く範囲へ降ろしてくれる点です。
浄土の救いは、努力の延長線上にある「いつかの到達点」ではなく、本願によって“横超”する道でした(この“横超”の核心は、依経段➄でも「即横超截五悪趣」へとつながっていきました)。
天親菩薩は、その横超の内容を、抽象ではなく「功徳荘厳」として語ります。
『浄土論』では、無量寿経にもとづいて、浄土のありさまを多面的に説き、「功徳」の完成として整理していることが示されています。
これがありがたいのは、浄土を「遠い理想郷」にして終わらせず、“阿弥陀仏のさとりとは、どういう世界観なのか” を、私たちの言葉の届く範囲へ降ろしてくれる点です。
【第6回】依経段➄ 正信偈が語る、人生を支える確かなよりどころ
6. 「二つの浄土」“場所”だけでなく“はたらき”としての浄土
ここで一度、誤解をほどいておきたいところがあります。
「浄土」と聞くと、多くの方は「死後に行く場所」として思い浮かべます。
もちろんそれは大切です。
けれど大乗仏教では、浄土はそれだけではありません。
龍谷大学講師 上野隆平氏の『季刊せいてん』では、浄土には大きく二つの語り方がある、と示されます。
1. 菩薩行(自力)としての浄土(土を浄める)
2. 仏国土(他力)としての浄土(浄められた土)
そして、前者が因(原因)となって、後者(結果)が完成する、という関係が述べられています。
これはたとえるなら、
● 原因:「畑を耕す(はたらき)」
● 結果:「実りを受け取る(完成)」
の関係に似ています。
阿弥陀仏の極楽浄土は、法蔵菩薩の大願とご修行によって“建立された”自力の浄土であり、同時に、私たちを利益する“はたらき”としての他力の浄土でもある。
天親菩薩は、その浄土の姿を「功徳荘厳」という形で、私たちに示してくれたのです。
「浄土」と聞くと、多くの方は「死後に行く場所」として思い浮かべます。
もちろんそれは大切です。
けれど大乗仏教では、浄土はそれだけではありません。
龍谷大学講師 上野隆平氏の『季刊せいてん』では、浄土には大きく二つの語り方がある、と示されます。
1. 菩薩行(自力)としての浄土(土を浄める)
2. 仏国土(他力)としての浄土(浄められた土)
そして、前者が因(原因)となって、後者(結果)が完成する、という関係が述べられています。
これはたとえるなら、
● 原因:「畑を耕す(はたらき)」
● 結果:「実りを受け取る(完成)」
の関係に似ています。
阿弥陀仏の極楽浄土は、法蔵菩薩の大願とご修行によって“建立された”自力の浄土であり、同時に、私たちを利益する“はたらき”としての他力の浄土でもある。
天親菩薩は、その浄土の姿を「功徳荘厳」という形で、私たちに示してくれたのです。
7. “回向”は、こちらの努力の上乗せではない
『正信偈』は、天親章の中心を「本願力廻向」と言い当てます。
廻向(えこう)は、私たちが功徳を積んで差し出す話ではなく、如来の側から、私たちへ届いてくるはたらきです。
これを日常の比喩で言うなら、「給付」や「支給」に近い、と言えるかもしれません。
こちらが条件を満たして“買い取る”のではなく、すでに整えられた救いが“届く”。
ここが真宗の要(かなめ)です。
廻向(えこう)は、私たちが功徳を積んで差し出す話ではなく、如来の側から、私たちへ届いてくるはたらきです。
これを日常の比喩で言うなら、「給付」や「支給」に近い、と言えるかもしれません。
こちらが条件を満たして“買い取る”のではなく、すでに整えられた救いが“届く”。
ここが真宗の要(かなめ)です。
8. 小さな器では量れない“海”へ
天親章は「大宝海(だいほうかい)」という大きな比喩で結ばれていきます。
宝の海とは「不足を埋めるための貯金箱」ではなく、尽きない救いの象徴です。
親鸞聖人も「如衆水入海一味」と【第4回】依経段③にてお伝えくださいました。
私たちはつい、
● 自分の善悪
● できた/できない
● 人との比較
という“小さな器”で、人生を測ってしまいます。
けれど阿弥陀仏の本願は、その器の小ささを責めるのではなく、すべてを受け入れたうえで宝海へ招く。
だから「帰入」と言うのです。
宝の海とは「不足を埋めるための貯金箱」ではなく、尽きない救いの象徴です。
親鸞聖人も「如衆水入海一味」と【第4回】依経段③にてお伝えくださいました。
私たちはつい、
● 自分の善悪
● できた/できない
● 人との比較
という“小さな器”で、人生を測ってしまいます。
けれど阿弥陀仏の本願は、その器の小ささを責めるのではなく、すべてを受け入れたうえで宝海へ招く。
だから「帰入」と言うのです。
9. 浄土は“現実逃避”ではない
天親章の終盤が、実はとても力強いところです。
「煩悩林(ぼんのうりん)」や「生死薗(しょうじおん)」は、きれい事では済まない煩悩にまみれた現実世界を思わせます。
そのただ中にあって、菩薩ははたらくと語られます。
ここで、浄土が「現実を捨てて逃げる場所」ではなく、むしろ、現実を引き受けていくための眼(まなこ) を与える道でもある、と感じられる方も多いでしょう。
浄土が“結果としての国土”であると同時に、“菩薩行としての浄土”でもある。
この二つがつながるからこそ、「救われたら終わり」ではなく、「救いの中で、現実世界に向き合う」道が開けてくる。
天親菩薩の整理は、その橋を架けてくれています。
「煩悩林(ぼんのうりん)」や「生死薗(しょうじおん)」は、きれい事では済まない煩悩にまみれた現実世界を思わせます。
そのただ中にあって、菩薩ははたらくと語られます。
ここで、浄土が「現実を捨てて逃げる場所」ではなく、むしろ、現実を引き受けていくための眼(まなこ) を与える道でもある、と感じられる方も多いでしょう。
浄土が“結果としての国土”であると同時に、“菩薩行としての浄土”でもある。
この二つがつながるからこそ、「救われたら終わり」ではなく、「救いの中で、現実世界に向き合う」道が開けてくる。
天親菩薩の整理は、その橋を架けてくれています。
10. 次回予告 曇鸞大師へ
次回は、依釈段の次の大きな節目、曇鸞大師 に進みます。
「本師曇鸞梁天子」
「三蔵流支授浄教」
「焚焼仙経帰楽邦」
など、ドラマのある言葉で曇鸞大師を讃えます。
「浄土の教えに出会った時、何を得るのか」その転回が、次回の見どころです。
はじめて学ぶ『正信偈』依経段シリーズ、依釈段シリーズは【】内リンクを参照。
「本師曇鸞梁天子」
「三蔵流支授浄教」
「焚焼仙経帰楽邦」
など、ドラマのある言葉で曇鸞大師を讃えます。
「浄土の教えに出会った時、何を得るのか」その転回が、次回の見どころです。
はじめて学ぶ『正信偈』依経段シリーズ、依釈段シリーズは【】内リンクを参照。
【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか
投稿者プロフィール
- 住職
- 高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。
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