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【第6回】依経段➄ 正信偈が語る、人生を支える確かなよりどころ

【第6回】依経段➄ 正信偈が語る、人生を支える確かなよりどころ

(『はじめて学ぶ正信偈』連載 )

はじめに──これまで学んできたことの整理


これまでの第1回〜第5回では、依経段を学び進めてきました。

これまでの要点をあらためて整理いたします。

第1回目の内容

  • 『正信偈』とは何か
  • 依経段の中心思想
  • 「救い」「一念」「安心」の意味

第2回目の内容

  • 法蔵菩薩は、あらゆるいのちを救うために誓いを建てた
  • 長い時間をかけて「すべての人が救われる道」を考え抜いた
  • その結果、名号(南無阿弥陀仏)を救いの中心に置いた
  • 阿弥陀仏の光は、迷いの深い人ほど照らす
  • 救われるとは、「煩悩の私を照らし続ける光に気づくこと」

第3回目の内容

  • 阿弥陀仏の本願に“疑いが晴れた”心のめざめ
  • 煩悩の消滅ではなく“救いの確かさ”をあらわす
  • 仏の光は雲(煩悩)に遮られても輝きを失わない
  • 信心を得た人は、煩悩のただ中で、他者を思いやる心が育つかもしれない

第4回目の内容

  • 凡夫も聖者も、五逆も誹謗も、すべて本願に回心されれば救われる。
  • 悪人正機「仏に背いてきた私」こそが、阿弥陀仏の救われる存在。
  • “重罪”の提示は、むしろすべての人が救われると知らせるための大悲。
  • 川の水が海に入るように、どんな違いも本願の中で溶け合う。

第5回目の内容

  • 阿弥陀仏の「光明」のはたらきは、迷う者を捨てない
  • 信心を得ても“煩悩はそのまま”という深い人間観
  • 努力や修行は「救われる条件」ではなく、「恵まれた者の自然な振る舞い」

今回の内容

依経段が伝えてきたこと

これまで『正信偈』依経段を通して、次のことを確認してきました。

  • 阿弥陀仏の本願は、法蔵菩薩が五劫思惟して建立された救済の誓いであること
  • その救いは、修行や能力ではなく、名号と信心を因として成り立つこと
  • 善人・悪人、凡夫・聖者を分け隔てず、平等に摂め取る本願であること

今回、取りあげる二句は、

獲信見敬大慶喜
即横超截五悪趣

依経段の結びとして、「その本願に遇った人に、何が起こるのか」 を明らかにしています。

それでは本文に入ります。

※これまでの『はじめて学ぶ正信偈』連載は最下部にリンクを貼っております。

「獲信見敬大慶喜」 信を得るとは、何を得ることなのか

『正信偈』に示される背景

この一句の背景には、『大無量寿経』(下巻:往覲偈)の言葉があります。

【原文】

聞法能不忘 見敬得大慶 則我善親友 是故当発意

(もんぼうのうふもう、けんきょうとくだいきょう、そくがぜんしんぬ、ぜことうほっち)

【書き下し文】

「法を聞きて能く忘れず、見て敬い、得て大いに慶べば、すなはち我が善き親友なり。このゆえに、まさに意を発すべし。」

【現代語訳】

「教えを聞いて心にとどめ、仏(阿弥陀仏)を仰いで信じ、喜ぶ者こそ、我(釈尊)にとってのまことの善き友である。だからこそ、悟りを求める心を起こしなさい。

という意味です。

● 「大慶」とは何を喜ぶのか

親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、

「『大慶』は、おほきにうべきことをえてのちに、よろこぶといふなり」

と経文を解釈されています。

ここで大切なのは、「これから何かを得る喜び」ではなく、

”すでに得ていた事実に気づく喜び”

だという点です。

・救われるために努力を積み重ねた結果の喜びではない
・迷いがなくなったからの喜びでもない

”煩悩具足の凡夫であるこの身が、すでに阿弥陀仏の本願に摂め取られていた”

という事実を知らされた慶びです。

この「得てのちに喜ぶ」という逆転した構造こそが、

浄土真宗の信心の特徴です。

「即横超截五悪趣」 救いは、努力の延長線上にない

次に続く一句が、

即横超截五悪趣

です。

ここには、親鸞聖人の独自の教相判釈(きょうそうはんじゃく)である二双四重(にそうしじゅう)によって、浄土真宗の救済観が、極めて明確な形で示されています。

● 教相判釈とは、

お釈迦様の教えを形式、方法、順序、説かれた内容などに分類し段階づけたもの。

「横超」の解釈

親鸞聖人は『教行信証』(信巻)において、

「横超」という言葉を、きわめて丁寧に定義されています。

要点を整理すると、次のようになります。

● 竪(じゅ)

自力による修行の積み重ね(聖道門)

● 横(おう)

他力による往生成仏(浄土門)

● 出(しゅつ)

長い時間をかけて徐々に迷いを出る(漸教)

● 超(ちょう)

わずかなあいだに迷いを超える(頓教)

この四つを組み合わせて、

1. 竪出(じゅっしゅつ)

自力による修行の積み重ね、長い時間をかけて徐々に迷いを出る

2. 竪超(じゅっちょう)

自力による修行の積み重ね、わずかなあいだに迷いを超える

3. 横出(おうしゅつ)

他力によるも、長い時間をかけて徐々に迷いを出る

4. 横超(おうちょう)

他力による往生成仏によってわずかなあいだに迷いを超える

上記、四重という分類が示されます。

「横超」とは何か

親鸞聖人は、

「横超とは、願成就一実円満の真教、真宗これなり」

と明言されています。

つまり、

● 修行の段階を上がっていく道ではなく

● 善悪・能力・理解度による区別もなく

● 本願によって、ただちに迷いを超える道

それが「横超」です。

さらに、

「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す」

とあるように、救いは「間に合うかどうか」の問題ではなく、

”すでに成就している事実に遇うかどうか”の問題だと示されています。

「五悪趣」を超えるとは

五悪趣とは、

1. 地獄(じごく)

罪に応じた耐え難い苦しみの世界。

2. 餓鬼(がき)

貪欲(とんよく)のために常に飢えと渇きに苦しむ世界。

3. 畜生(ちくしょう)

道理に無知で、争い殺し合う動物の世界。

4. 人

欲望や感情に支配され、悩み苦しむ世界。

5. 天

楽しみが多いが、永遠ではなく、やはり苦しみが伴う世界。

※畜生と人の間の修羅(しゅら)はこの場合、人界に含まれる。

これらは死後の世界という認識で構いませんが、

● 怒りに支配される生き方

● 欲望に追われ続ける生き方

● 比較と競争に疲れ果てる生き方

といった、”私たちの日常そのものを表している”とも言えます。

その迷いを、自力で断ち切ることはできません。

だからこそ「即(ただちに)」であり、「横超」なのです。

五悪趣の解釈に関して詳しくは【】内リンクを参照ください。

依経段が示した結論

依経段が一貫して伝えてきたことは、明確です。

それは、

”救いは、私の努力によって完成するものではない”

ということです。

善人だから救われるのでもなく、悪人だから除外されるのでもありません。

”本願に願われているという事実が、すでに完成している”

それを知らされたとき、

・大いに慶び
・迷いの世界に縛られない方向が定まり

人生は、根本から意味づけを変えられるのです。

次回予告 依釈段へ

次回からは、『正信偈』後半の 依釈段 に入ります。

ここでは、

1. 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)

2. 天親菩薩(てんじんぼさつ)

3. 曇鸞大師(どんらんだいし)

4. 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)

5. 善導大師(ぜんどうだいし)

6. 源信和尚(げんしんかしょう)

7. 源空上人(げんくうしょうにん)又は、法然上人(ほうねんしょうにん)

という祖師方が、お釈迦様の教えをどのように受け取り、どのように解釈してきたのかが語られます。

お釈迦様から親鸞聖人にみ教えが伝わるまでの約1200年、7名の僧「七高僧」を辿り阿弥陀仏の本願が、”思想としてではなく、歴史の中で生きてきた教え”であることを、次回からあらためてたずねていきます。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

【第2回】依経段① 法蔵菩薩の物語と十八願のこころ

【第3回】依経段② “煩悩をもったまま救われる”とはどういうことか

【第4回】依経段③  阿弥陀仏の救いは、なぜ「平等」なのか

【第5回】依経段➃ 摂取不捨の光明 「雲霧の下は明無闇」の世界

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。