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【第4回】依経段③  阿弥陀仏の救いは、なぜ「平等」なのか

【第4回】依経段③  阿弥陀仏の救いは、なぜ「平等」なのか

(『はじめて学ぶ正信偈』連載 )

はじめに──これまで学んできたことの整理


これまでの第1回〜第3回では、依経段を学び進めてきました。

これまでの要点をあらためて整理いたします。

第1回目の内容

  • 『正信偈』とは何か
  • 依経段の中心思想
  • 「救い」「一念」「安心」の意味

第2回目の内容

  • 法蔵菩薩は、あらゆるいのちを救うために誓いを建てた
  • 長い時間をかけて「すべての人が救われる道」を考え抜いた
  • その結果、名号(南無阿弥陀仏)を救いの中心に置いた
  • 阿弥陀仏の光は、迷いの深い人ほど照らす
  • 救われるとは、「煩悩の私を照らし続ける光に気づくこと」

第3回目の内容

  • 「一念喜愛心」は、阿弥陀仏の本願に“疑いが晴れた”心のめざめ
  • 「不断煩悩得涅槃」は、煩悩の消滅ではなく“救いの確かさ”をあらわす
  • 仏の光は雲(煩悩)に遮られても輝きを失わない
  • 信心を得た人は、煩悩のただ中で、他者を思いやる心が育つかもしれない

第4回目の内容──救いの平等性

これまでの学びの頂点ともいえる「誰が救われるのか」という問題に踏み込みます。

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう、にょしゅうすいにゅうかいいちみ)

この言葉が示す 「救いの徹底した平等性」

つまり、 阿弥陀仏の本願がなぜ「人の善悪を問わない」のか?

併せて浄土真宗を特徴づける「悪人正機」の精神を丁寧に読み解いてまいります。

※これまでの『はじめて学ぶ正信偈』連載は最下部にリンクを貼っております。

1. 凡夫も聖者も、五逆も誹謗も

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

【現代語訳】

凡夫も聖者も、五逆の者も、仏法を誹謗してきた者も、すべて阿弥陀仏の本願に回心されれば、海に注ぐ川の水が一つとなるように、等しく救いに入る。

これは、浄土真宗の救いの”徹底した平等性”を示す文です。

2. 悪人正機とは何か 親鸞聖人の特徴的思想

浄土真宗を語るうえで欠かせないのが、”悪人正機(あくにんしょうき)”という考え方です。

● 悪人正機とは

親鸞聖人が『歎異抄』第3条で示された言葉、

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」です。

「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人が往生できるのは言うまでもない」

ここでいう「悪人」とは、法律違反をした者、不道徳な者ではなく、

”「煩悩に満ち、自力では救われえない自分」”のことです。

言い換えれば、

”「仏に背を向け、欲と怒りと迷いの中に生きている本当の私」”を指します。

親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」と告白され、「自身こそが悪人である」と深く自覚されました。

そしてこう示されます。

● なぜ“悪人こそ”救われるのか

それは、

”自分の力(自力)ではどうにもできないと知った人こそ阿弥陀仏にすべてを任せる他力の道が開けるから”です。

修行で善を積んで自分の力で何とかできる、と考える「善人」よりも、自分の無力さを深く知る「悪人」こそ阿弥陀仏の救いの対象なのです。

3. 五逆・誹謗正法も救われる? 「ただ、除く」の真意

今回のテーマには、次の深い背景があります。

それは根本経典『大無量寿経』の本願(第18願)にあります。 

【原文】

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」

【現代語訳】

「わたし法蔵が阿弥陀仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国である西方極楽浄土に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決して悟りを開きません。(阿弥陀仏にはなりません)ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」

『正信偈』では以下の部分です。

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 

建立無上殊勝願 

● 五逆(ごぎゃく)とは

1. 父を殺す
2. 母を殺す
3. 聖者を殺す
4. 仏の身体を傷つける
5. 教団の和合を乱し破壊する 

阿弥陀仏の絶対的な平等性を語るうえで、

「唯、除く」と一部条件が提示されております。

これは一見矛盾した内容に見えますが、親鸞聖人はまったく違う角度でこの文を受け取られました。

親鸞聖人の著書『尊号真像銘文』(そんごうしんぞうめいもん)にこうあります。

【書き下し文】

「唯除というはただ除くという言葉なり。五逆の罪人をきらい、誹謗の重きとがを知らせんとなり。この二つの罪の重きことを示して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせんとなり。」

つまり、唯除とは

「五逆・謗法がどれほど重いかを知らせるための表現であり、そのことを知らせたうえで、十方すべての衆生はもれなく救われる と明らかにするための言葉」ということです。

ここには『はじめて学ぶ正信偈』後半で記す曇鸞・善導両大師の解釈を踏まえた深い理解があります。

4. 悪人正機と「凡聖逆謗斉廻入」の結びつき

改めて句を見ます。

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

親鸞聖人の教えが明らかにするのは、

● 凡=煩悩具足の私
● 聖=煩悩を断じた聖者
● 逆=五逆の人
● 謗=仏法を否定してきた人
● 斉廻入=すべてが等しく廻心して本願に入る

ということ。

そして「一味」とは、

”浄土に至れば聖も凡も、清も濁も、善も悪も差別がない”ことを示す喩えです。

ここから見えてくるのが「悪人正機」です。

阿弥陀仏の救いが“弱い者・迷い深い者にこそ”届くということ。

善が足らない私、煩悩まみれの私、仏法に背を向けてきた私にこそ、阿弥陀仏の本願は届く。

それが「悪人正機」です。

5. 現代に生きる私たちへの示唆

現代には、

・人に迷惑をかけまいと無理をする

・自分を責めすぎてしまう

・完全であろうとしすぎる

・“ちゃんとした人”でなければ救われない(報われない)と思う

という心が社会通念として広くあります。

しかし親鸞聖人はまったく逆を示されます。

● 救いの出発点は「欠けたままの私」である

それは、「私は煩悩具足で、どうにもならない存在だった」という自己認識です。

これがまさに”悪人の自覚”であり、凡も聖も、逆も謗も、みな阿弥陀仏の呼び声の中にある。

という教えの体現です。

6. 如衆水入海一味 海のような平等

最後に、喩えを再確認します。

水は海に入れば、一つになる。

きれいな水、にごった水、山の水、畑の水、雨の水、どれも海に入れば「海」という同じ場所で一味になります。

「人」という存在も同じです。

・名前が違う

・生きてきた道が違う

・価値観が違う

しかし阿弥陀仏の願いの前ではすべての差別が消え、ひとしく救われる。

この喩えこそ、「凡聖逆謗斉廻入」の世界です。

7. まとめ 次回予告

第4回の要点は以下です。

● 凡聖逆謗斉廻入

凡夫も聖者も、五逆も誹謗も、すべて本願に回心しさえすれば救われる。

● 悪人正機

「仏に背いてきた私」こそが、阿弥陀仏の救われるまさに中心の存在。

● 唯除五逆誹謗正法

“重罪”の提示は、むしろすべての人が救われると知らせるための大悲。

● 如衆水入海一味

川の水が海に入るように、どんな違いも本願の中で溶け合い、一味となる。

【次回予告 第5回】

次回は、依経段の最終章へ進みます。

摂取心光常照護~雲霧之下明無闇

阿弥陀仏の光明が、迷いの闇をいかに破り、どのように“絶えず照護する”のか。

さらに、親鸞聖人の「悪人正機」から「摂取不捨」へのつながりを読み解いていきます。

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

【第2回】依経段① 法蔵菩薩の物語と十八願のこころ

【第3回】依経段② “煩悩をもったまま救われる”とはどういうことか

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。