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【第3回】依経段② “煩悩をもったまま救われる”とはどういうことか

【第3回】依経段② “煩悩をもったまま救われる”とはどういうことか

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」を読む

(連載:はじめて学ぶ『正信偈』)

はじめに 依経段の中心句

第2回では、法蔵菩薩がどのようにして四十八願を発し、「すべての人が漏れなく救われる道」をつくりあげたかを学びました。

今回はいよいよ、依経段の中でもとりわけ有名で、浄土真宗の「救いの核心」 が示されている二句を取りあげます。

能発一念喜愛心(のうほつ いちねん きあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだん ぼんのう とくねはん)

この二句は「なぜ私たちのような煩悩だらけの人間でも救われるのか?」という大問題に、はっきりと答えてくれます。

※これまでの『はじめて学ぶ正信偈』連載は最下部にリンクを貼っております。

1. 「一念喜愛心」とは何か “信心のめざめ”の瞬間

まず「能発一念喜愛心」を見てみましょう。

● 「能発(のうほつ)」は阿弥陀仏のはたらき

親鸞聖人は「能」という文字を “阿弥陀仏の力” と読まれました。

つまり、”「阿弥陀仏のはたらきによって、私の心に起こされる」”という意味です。

● 「一念」とは“最小の時間”

『教行信証』(信巻)では、

「時剋の極促(じこくのごくそく)」

”これ以上短い瞬間はない”と説明されています。

これは「一瞬のうち」という意味ではありますが、心理的な「ひらめき」や「感情の昂り」ではありません。

● 「喜愛心」とは“疑いの晴れた心”

これは、”「阿弥陀仏の本願は私に向けられていたのだ」”と頷けたときの、深い安心・歓喜を指します。

例えば、

夜の荒れた海を小さな船でさまよっているとします。

遠くに光る灯台が見え、「ここへ向かって進めば必ず助かる」とわかった瞬間、胸の奥に“喜びが立ち上がる”ことがあります。

これが「一念喜愛心」に近い感覚です。

自力でどうにもならない私の人生に、「確かな灯台」があると知らされる。

それが「一念喜愛心」です。

2. 「不断煩悩得涅槃」の衝撃 煩悩はなくならない

次に、浄土真宗の要とも言える句を見ます。

不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)

煩悩を断たずして、涅槃(悟り)を得るという意味です。

初期仏教では、悟りへの道は「煩悩を抑制すること」と説かれておりますが、親鸞聖人の生きられた平安末期から鎌倉時代においては”「煩悩を断ち切ること」”というニュアンスで説かれてきました。

しかし『正信偈』ではまったく逆を言っています。

● 煩悩があっても救われる

これは浄土真宗の最も特徴的な教えです。

親鸞聖人は、自分のことを「煩悩具足の凡夫」と言い切っています。

・腹が立つ
・欲が止まらない
・他人と比べてしまう
・人をゆるせない
・弱さや自信のなさを隠したい

こうした心が、私たちには生涯つきまといます。

けれども阿弥陀仏の救いは、

”煩悩が消えた人のためではなく、煩悩をどうすることもできない人”のためにある。

これが浄土真宗の大きな救いです。

3. 「煩悩があっても涅槃に至る」とは、どういう意味か

ここが誤解されやすいところですが、

● 煩悩が“許される”わけではない

阿弥陀仏は「好き勝手なまま生きて良い」と言われているのではありません。

かつてこの教えを誤って解釈し、造悪無碍(ぞうあくむげ)といって「悪を犯しても阿弥陀仏の本願の救いの妨げにはならないのだから、悪いことをしてもよい」と考える者がおりました。

これは親鸞聖人が厳しく批判した異端の考え方で、「悪人こそが救われる」という意味とは全く異なります。

むしろ親鸞聖人は、

”「煩悩に気づけるのは、仏の智慧の光が照らしているからだ」”と受け止められています。

光が当たれば、影の形がくっきりと見えるように、仏のはたらきに出あえば、”自分の心の弱さ・暗さ・愚かさが浮き彫りになる。”

これが「信心を得た後の生活」に起きる変化です。

4. 親鸞聖人の核心的理解

親鸞聖人の弟子である唯円(ゆいえん)が親鸞聖人滅後に教えが誤って伝えられる状況を憂慮し、それを正す目的で遺された『歎異抄』(たんにしょう)の第七条にはこう述べられています。

”念仏者は無碍の一道なり”

これは、“煩悩は残るが、煩悩は往生の障りにはならない”という意味です。

煩悩はなくならない。

しかし、煩悩によって「行き先」が決まるわけではない。

故に親鸞聖人は『歎異抄』御序で次のように言い切っています。

【原文】

”煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします”

【現代語訳】

「煩悩に支配された私たち人の心は移ろいやすい。けれども阿弥陀仏の本願(念仏)は“まこと”である。」と。

5. 濃い霧の中に射し込む光

「煩悩があっても救われる」は抽象的なので、もう一つ例えを。

深い霧の峠を車で運転しているとします。

前がほとんど見えない。

不安でたまらない。

そのとき、遠くから

“一直線に伸びる明るいライト”があなたのいる位置を照らしてくれたらどうでしょう。

霧が晴れるわけではありません。

視界は悪いままです。

しかし、”「ここに道がある」”とわかるだけで、人は前へ進むことができます。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願のはたらきをこの“光”にたとえて受けとめられています。

6. 常覆真実信心天 雲に覆われても日は輝いている

依経段には、次の重要な句が続きます。

常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧

(じょうふしんじつしんじんてん、ひにょにっこうふうんむ)

雲霧之下明無闇

(うんむしげみょうむあん)

この三句は、親鸞聖人の「信心理解」を象徴します。

● 雲や霧=煩悩

私たちの心には、怒り・欲望・不安・ねたみ・怠け心など、さまざまな心の“曇り”があります。

とてもではないけれど、「清らかな心」と胸をはって言える状態ではありません。

● しかし太陽(仏の慈悲)は曇らない

雲に隠れても、太陽が消えているわけではありません。

むしろ雲の“下”には光が満ちており、真っ暗ではない。

これが”「煩悩を断たずして涅槃に至る」”という真宗の救いの構造です。

※第5回にて改めて解説いたします。

7. 信心を得た者の姿「獲信見敬大慶喜」

依経段はこう続きます。

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき、そくおうちょうぜつごあくしゅ)

「信心を得た人は、仏のはたらきへの畏敬が自然と湧き、深い慶びが生まれる。」

そしてその人は、迷いの世界を“横ざまに一気に飛び超える”と説かれます。

煩悩が消えないまま、その煩悩を抱えた私が“仏の光の中に抱かれている”。

それが浄土真宗の「横超(おうちょう)」の道です。

※第6回にて改めて解説いたします。

8. コラム 信心は行動を変える? ー筆者の実感としてー

「煩悩は断ち切れないまま救われる」と聞くと、

“それなら信心を得ても、何も変わらないのでは?”という疑問が生まれることがあります。

しかし親鸞聖人が明確に示されているように、

「煩悩が残る」ことと「心の作用が変化する」ことは、別の次元の出来事です。

煩悩は残っても、ものの見方や、他者との向き合い方、生きる姿勢は確かに変わっていく。

これは多くの念仏者が実感してきた歩みであり、筆者自身も深く味わっていることです。

「愚かなまま救われる」と聞かされた衝撃

私自身、親鸞聖人のみ教えに触れ、阿弥陀仏の本願のはたらきを知ったとき、胸の奥にひとつの大きな事実が突き刺さりました。

「愚かな自分が、そのまま救いの対象であった」

これは、よくよく味わうときわめて大きな転換点です。

・立派にならなければ救われない
・悪い心を捨ててから仏に向かうべきだ
・真面目で清らかな人でなければならない

こうした“思い込み”が私の心を長いこと縛りつけていました。

常識、偏見、周囲の期待、過去の経験。

それらが知らず知らずのうちに心へ杭を打ち、太い鎖で自分を縛っていたのです。

ところが『正信偈』の教えは、その真逆を言いました。

「煩悩具足の凡夫が、そのまま救われる」

「不断煩悩のまま涅槃に至る」

これをはじめて聞いたとき、

“そんなはずがあるだろうか”という戸惑いと同時に、胸の奥が温かくほどけていくような感覚がありました。

“そのままの私が抱きとめられる世界”を知ったことによる変化

阿弥陀仏の本願によって照らされると、自分が変わるというよりも、

「世界の見え方が変わる」

「人を見る眼差しが柔らかくなる」

「自分の弱さに蓋をしなくてもよくなる」

という変化が自然と起こるように思います。

み教えに出遇う前の私は、「正しくあらねばならない」「失敗してはならない」という思いが強く、他人にも自分にも厳しい心が働いていました。

しかし、「この身、このままで、すべてをお任せできる」という安心の世界があると知らされてからは、

・人の弱さを責めるより、その背景に思いを向ける
・怒りの裏にある自分の不安に気づける
・他人の喜びを素直に喜べる時が増える
・無理に「良い人」を演じなくてよくなる

そんな“心の作用の変化”が、日々少しずつ現れてきました。

阿弥陀仏の恩に報いる生き方とは「立派になること」ではない

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を聞き慶ぶ人の生き方について

・積極的に善いことをしなさい
・悪いことをしないよう努力しなさい

このように明確には触れられてはおられません。

ここでいう「変化」とは、道徳的な優等生になることでも、立派な人格者になることでもありません。

むしろ、

「愚かさに気づくことで、他者へのまなざしが変わる」

「救われた身として、自然と行動が柔らかくなる」

という“いのちの方向性”の変化とでもいいましょうか。

私自身も、阿弥陀仏の恩を思うと、少しでも人を悲しませる言動を避けよう、誰かの苦しみに目を向けよう、と自然に心が働くようになりました。

これは、

“煩悩は同じでも、心が向く方向が変わった”ということです。

もちろん読者の皆様には皆様なりの心の変化や作用があるかもしれません。

これはあくまで筆者自身の体験として記しておきます。

信心とは、私の努力や心がけの話ではない

あらためて強調すると、

信心とは「私が磨き上げた心」のことではなく、阿弥陀仏が私の心に起こしてくださるはたらきです。

だからこそ「能発一念喜愛心」と説き、その結果として「不断煩悩の凡夫」が「得涅槃」に至ります。

この順番が逆になることは決してありません。

煩悩具足の私が救われる。

そこに、心が変わるという“果報”が自然とついてくるかもしれない。

これが浄土真宗の「信心」なのです。

9. 第3回まとめ 次回予告

今回扱った依経段の中心句から浮かび上がるポイントは次の通りです。

1. 「一念喜愛心」は、阿弥陀仏の本願に“疑いが晴れた”心のめざめ

2. 「不断煩悩得涅槃」は、煩悩の消滅ではなく“救いの確かさ”をあらわす

3. 仏の光は雲(煩悩)に遮られても輝きを失わない

4. 信心を得た人は、煩悩の中で、他者を思いやる心が育つかもしれない

次回予告──依経段③「凡聖逆謗斉廻入」

第4回では、さらに大胆な表現、

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう、にょしゅうすいにゅうかいいちみ)

を読み解きます。

「善人も悪人も、仏の前には分け隔てなく受け入れられる」という、真宗独自の「平等観」を取りあげます。

※第1回、第2回の記事は下記リンクより

【第1回】はじめて学ぶ『正信偈』─なぜ今、「親鸞のことば」を読むのか

【第2回】依経段① 法蔵菩薩の物語と十八願のこころ

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。