BLOG ブログ

過去を責める心に、慈しみを向ける

過去を責める心に、慈しみを向ける

先日、ある女性の方からご相談をいただきました。

その方は、テーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」に取り組んでおられるとのことでした。

パーリ仏典『慈経』(Metta Sutta)に説かれる慈悲の瞑想では、

  • 「私が幸せでありますように」
  • 「私の苦しみがなくなりますように」
  • 「私が安らかでありますように」

といった言葉を、自分や他者に向けて静かに念じることで心に染み込ませ、慈悲の感情を育てます。

本来であれば、自分や他者へのあたたかいまなざしを育て、心を少しずつやわらかくしていくための実践法です。

しかし、その方はこのようにお話しくださいました。

  • 「自分を癒すことが大切だとわかっていても、どうしても自分を責めてしまう」
  • 「因果応報や、過去の過ちを捨てて今を生きるという教えが、かえって心の枷になってしまう」
  • 「自分が幸せになってよいとは思えない」

本来ならば心を軽くするはずの教えが、かえって自分を縛るものになってしまう。

そのような苦しみを抱えておられました。

これは、その方だけの特別な悩みではないと思います。

まじめに仏教を学ぼうとする人ほど、
まじめに自分を見つめようとする人ほど、
教えを「救い」ではなく「自責」として受け取ってしまうことがあります。

近年のウェルビーイング研究では、幸せとは単に「明るい気持ちでいること」だけではないと考えられています。

WHOの健康定義では、健康は「身体的・精神的・社会的に良い状態」とされ、病気がないことだけではないと説明されています。

苦しみや後悔を抱えながらも、自分自身を見捨てず、人との関係や人生の意味を少しずつ回復していくことも、大切なウェルビーイングの一部です。

その意味で、「自分を責めてしまう心」とどう向き合うかは、仏教だけでなく、現代のウェルビーイング研究においても重要なテーマだと言えます。

今回は、ご相談をいただいた内容をもとに慈悲の瞑想、自責の念、因果応報、反省、布施、そして仏教のまなざしを通して、「自分を責め続ける心」とどう向き合えばよいのかを考えてみたいと思います。

まじめな人ほど、自分を責めてしまう

仏教は、私たちを責めるために説かれたものではありません。

しかし、まじめな方ほど、教えを自責の念として受け取ってしまうことがあります。

今回ご相談をいただいた方は少なからず次のように考えておられました。

・「因果応報だから、私は苦しんで当然だ」
・「過去に悪いことをしたのだから、幸せになってはいけない」
・「今を生きなければならないのに、まだ過去にこだわっている私はだめだ」
・「慈悲の心を持てない私は、仏教を実践できていない」

そうして、反省がいつの間にか自己否定になっていきます。

心理学では、「罪悪感」と「恥」は区別して考えられることがあります。

罪悪感は、「自分の行為」に対する反省です。

・「悪いことをした」
・「人を傷つけてしまった」
・「次は改めたい」

このように、行為に目が向いている場合、そこには次の一歩へ向かう可能性があります。

一方で、恥は「自分という存在そのもの」を否定する方向に向かいやすい感情です。

・「私は悪い人間だ」
・「私は幸せになってはいけない」
・「私には価値がない」

こうなると、反省は回復への道ではなく、自分を閉じ込める牢獄のようになってしまいます。

仏教は、自分の心を見つめる教えです。

しかし、「見つめる」ことと「責め続ける」ことは違います。

自分の過ちに気づくことは大切です。

人を傷つけたなら、それをなかったことにはできません。

迷惑をかけたなら、できる範囲で償い、態度を改めることも大切です。

けれど、そこから先、過去を使って今の自分を殴り続ける必要はありません。

悔いは、罰ではなく、これからの慎みへと変えていくものです。

【恥と罪悪感の違いを再考する】(英文)

反省とは、自分を罰し続けることではない

仏教では、自らの過ちを見つめ、悔い、改めていくことを「懺悔」(さんげ)といいます。

一般的には「反省」に近い考え方としておきます。

過ちをなかったことにするのでもなく、自分という存在を否定するのでもなく、過去の行いを見つめたうえで、これからの身・口・意(心)を整えていくことです。

過去を変えることはできません。

けれど、今の行い、今の言葉、今の心の向きは、少しずつ整えていくことができます。

ウェルビーイング研究でも、困難を避けることよりも、困難から学び、次の行動へつなげる力が大切だとされています。

これは、レジリエンスや心理的柔軟性と呼ばれる考え方にも通じます。

レジリエンスとは、簡単に言えば、困難があっても少しずつ回復していく力です。

「折れない強さ」というより、折れそうになりながらも、支えや意味を得て戻っていく力と言えるでしょう。

心理的柔軟性とは、自分の感情や考えに飲み込まれすぎず、今の状況の中で大切な方向へ行動していく力です。

そう考えると、懴悔は、自己否定のためではなく、ウェルビーイングを回復するための道でもあります。

「私はだめな人間だ」と決めつけることではなく、

「これ以上、自分も他者も傷つけないように、今ここからどう歩むか」を考えること。

悔いを「罰」に変えるのではなく、「これからの慎み」に変えていくこと。

そこに、心の回復と仏道の歩みが重なります。

慈悲の瞑想が苦しくなるとき

慈悲の瞑想では、まず自分に向けて慈悲を向けます。

・「私が幸せでありますように」
・「私が安らかでありますように」

しかし、自責の念が強いときには、この言葉がかえって苦しく感じられることがあります。

・「私が幸せになってよいのだろうか」
・「私はそんなことを願える人間ではない」
・「幸せを願う前に、もっと反省すべきではないか」

そう心が反発してしまうことがあります。

マインドフルネスや慈悲の瞑想は、心を整える実践として広く知られています。

しかし、すべての人に、いつでも同じように穏やかな効果があるわけではありません。

自責の念が強いときに「私は幸せでありますように」と唱えると、かえって心が反発することがあります。

それは、実践が間違っているというよりも、今の心がそれだけ苦しんでいるというサインかもしれません。

ウェルビーイングは、「いつも前向きでいること」ではありません。

「前向きになれない自分」を責めないことも、ウェルビーイングの大切な一部です。

そのようなとき、無理に「自分を好きになろう」としなくてもよいと思います。

無理に「私は幸せになってよい」と思い込もうとしなくてもよいのです。

まずは、今ここに「苦しんでいる心」があることを認めるところから始めればよいのではないでしょうか。

慈悲とは、きれいな心だけに向けられるものではありません。

苦しんでいるものを、苦しみのままに見捨てない心です。

であるならば、自分を責めている心にも、慈悲は向けられてよいはずです。

慈悲の瞑想に関しては過去ブログでも記載しております。

【アナタの日常に瞑想を】

自分を責める心にも、慈悲を向ける

「私が幸せでありますように」という言葉が苦しいときは、少し言葉を変えてみてもよいと思います。

たとえば、次のような言葉です。

・この苦しみが、少しやわらぎますように。
・私は過ちから学べますように。
・これ以上、自分も他者も傷つけませんように。
・善い方向へ歩んでいけますように。
・責め続ける心が、少し静まりますように。

心理学には、セルフコンパッションという考え方があります。

直訳すると「自分への思いやり」という意味ですが、これは、自分を甘やかすことではありません。

苦しんでいる自分を、責めたり突き放したりせず、「今、苦しいのだ」と理解する態度です。

慈悲もまた、過ちをなかったことにするものではありません。

苦しんでいるものを、苦しみのままに見捨てない心です。

「私は幸せでありますように」という言葉が苦しいときは、

・「この苦しみが少しやわらぎますように」
・「私は過ちから学べますように」
・「これ以上、自分も他者も傷つけませんように」

という言葉から始めてもよいと私は思います。

慈悲とは、甘やかしではありません。

また、自分の過ちをなかったことにすることでもありません。

繰り返しになりますが、

慈悲とは、苦しんでいる存在を見捨てない心です。

相手を見捨てない。

そして、自分自身も見捨てない。

これは、仏教的にも、ウェルビーイングの視点から見ても、とても大切なことです。

ただし、その慈悲は、まず「立派な人間になってから」始まるものではありません。

自分を責めてしまう心を抱えたまま、そこから始めてよいのです。

責める自分も、責められる自分も

自分を責めているとき、私たちは心の中で二つに分かれてしまいます。

・責める自分。
・責められる自分。

「お前はだめだ」という自分と、「私はだめな人間だ」とうずくまる自分。

しかし、そのどちらもまた、迷いの中にある私です。

・恐れ
・後悔
・不安
・罪悪感
・救われたいという願い

それらに振り回されながら、なお苦しみから離れたいと願っている一人の人間です。

心理学では、自分の考えや感情を少し距離を置いて見ることが、心の安定に役立つとされています。

たとえば、「私はだめだ」と思う代わりに、「今、自分を責める思考が起きている」と見ることです。

これは、苦しみを否定することではありません。

苦しみと自分自身を完全に同一化しないための工夫です。

責める自分も、責められる自分も、どちらも苦しみの中にあります。

その両方を、少し離れたところから見つめることで、心にわずかな余白が生まれます。

「見捨てられていない」という感覚

自分を責めているとき、心の奥には「私は見捨てられるのではないか」という不安があることがあります。

・過ちを犯した自分
・うまく生きられない自分
・何度も同じところでつまずく自分
・人に迷惑をかけてしまう自分

そんな自分は、誰からも受け入れられないのではないか。

そう感じるとき、人はますます自分を責めてしまいます。

ウェルビーイング研究では、人が回復していくためには、「自分は見捨てられていない」という感覚が大きな支えになると考えられます。

それは、家族や友人との関係で感じることもあれば、ボランティア活動や宗教的実践の中で感じることもあります。

人は、自分一人の力だけで立ち直れるわけではありません。

自分を責めているときほど、何かに支えられている感覚が必要になります。

「私は完全ではない。けれど、見捨てられてはいない」

その感覚があるからこそ、人はもう一度、今ここから歩み直すことができるのです。

仏教おにける救いは、過去を消してくれる魔法ではありません。

けれど、過去だけで自分を決めつける必要はないと知らせてくれます。

「手放す」とは、過去を消すことではない

「過去を手放しましょう」と言われることがあります。

しかし、手放すとは、過去をなかったことにすることではありません。

忘れることでも、責任を消すことでもありません。

心理学においても、「手放す」とは、過去を忘れることではありません。

むしろ、過去との関係を変えていくことです。

過去の出来事そのものは変えられません。

しかし、その出来事を「私はだめな人間だ」という自己否定だけで握りしめ続けるのか、

「これからの生き方を整えるための学び」として受け止め直すのかで、心の在り方は変わっていきます。

手放すとは、過去を消すことではありません。

過去に支配され続ける握りしめ方を、少しずつゆるめていくことです。

私は過去の責任を否定しない。

けれども、過去をもって今の自分を責め続けることもしない。

悔いを、罰ではなく、前に進む為の力に変えていく。

後悔を、自己否定ではなく、これからの慎みに変えていく。

それが、仏教における「今を生きる」ということではないでしょうか。

「今を生きる」とは、過去を切り捨てることではありません。

過去を抱えたまま、今の一歩を見失わないことです。

清らかになってからではなく

苦しみを抱えたままでも、願い、祈ることはできます。

自分を責める心があっても、慈悲の瞑想は始められます。

心が乱れていても、仏さまの教えに触れることはできます。

清らかな心になってから仏道を歩むのではありません。

少なからず浄土真宗では、清らかになりきれない私のまま、教えに遇わせていただくのです。

ウェルビーイングという言葉は、ときに「元気で前向きな人のためのもの」のように聞こえることがあります。

しかし本来、ウェルビーイングは、苦しみを抱えた人が排除される考え方ではありません。

むしろ、疲れている人、迷っている人、自分を責めてしまう人が、少しずつ回復していくための土台でもあります。

元気になってから相談するのではありません。

整ってから場に来るのではありません。

前向きになってから仏さまの前に座るのではありません。

しんどいまま、来てよい。

言葉にならないまま、座ってよい。

自分を責める心を抱えたまま、手を合わせてよい。

そこから、少しずつ心がほどけていくことがあります。

布施とは、自分を責める代わりに、今できる善い方向へ向かうこと

最後に、「布施」のことにも触れておきたいと思います。

布施とは、単にお金を差し出すことだけではありません。

・誰かにあたたかい言葉をかけること
・話を聴くこと
・時間を分かち合うこと
・笑顔で接すること
・小さな手助けをすること

これらもまた、布施です。

近年のウェルビーイング研究では、親切や感謝、他者への思いやりが、本人の幸福感や人生の充実にも関係することが示されています。

また、「愛されること」だけでなく、「愛を示すこと」が人の繁栄と深く結びつくという研究もあります。

これは、布施の精神とよく響き合います。

自分を責め続けていると、心は過去に閉じ込められます。

しかし、小さな布施は、心を今へ戻してくれます。

「私はだめだ」と自分を責め続ける代わりに、

・今日、誰かにやさしい言葉を一つかけてみる
・今日、誰かの話を少し丁寧に聴いてみる
・今日、自分自身にも「もう責めすぎなくていい」と言ってみる

これらは、過去から学び、今を善い方向へ向ける行為です。

布施は、自己否定の反対側にある実践です。

自分を罰し続けるのではなく、今ここから善い縁を結び直していくことです。

布施については、どうしても金銭的なイメージが強いと思います。

過去に布施について詳しく記したブログがあるのでリンクを貼っておきます。

【お布施の金額っていくら?由来は?】

まとめ:教えは、あなたを責めるためにあるのではない

仏教の教えは、私たちを責めるために説かれたものではありません。

因果応報も、慈悲の瞑想も、今を生きるという教えも、

本来は私たちを縛るための言葉ではなく、苦しみから少しずつ離れていくための道しるべです。

まじめな人ほど、教えを自分への裁きとして受け取ってしまうことがあります。

けれど、どうか忘れないでいただきたいのです。

懴悔とは、自分を罰し続けることではありません。

慈悲とは、よい言葉を並べて過ちをなかったことにすることではありません。

手放すとは、過去を消すことではありません。

ウェルビーイングとは、苦しみがまったくない状態を指すのではありません。

苦しみを抱えながらも、自分を見捨てず、人との関係や人生の意味を少しずつ回復していくことも、ウェルビーイングの大切な一部です。

反省を、自己否定ではなく慎みに変える。

後悔を、罰ではなく願いに変える。

慈悲を、他者だけでなく自分にも向ける。

そして、今日できる小さな布施へと歩み出す。

そこに、仏教とウェルビーイングが重なる道があるのではないでしょうか。

どうか、過去の自分を裁くためではなく、今の自分を見捨てないために、仏さまの教えに触れていただきたいと思います。

お寺は、整った人だけが来る場所ではありません。

苦しみを抱えたまま、迷いを抱えたまま、言葉にならない思いを抱えたまま、手を合わせてよい場所です。

そのままのあなたが、少しずつ歩み直せるご縁となれば幸いです。

ご相談はお問い合わせ又はお電話にて受け付けております。

【お問い合わせ】

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。