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紅葉と報恩講 ― 色づく秋にいただく仏法

紅葉と報恩講 ― 色づく秋にいただく仏法

はじめに ― 紅葉の季節に想うこと

秋が深まり、木々が彩りを増すころ。


澄みわたる空気の中に、風の音がひときわ静かに響きます。


葉の一枚一枚が、いのちの炎のように燃える季節。


自然が私たちに「無常」という真理を静かに語りかけてくる時期です。

仏教では、この「無常」をいのちの真実として受けとめます。


散りゆく葉は消滅ではなく、新しいいのちの準備。


浄土真宗では、み教えによりこの無常の中にこそ「阿弥陀如来の救いの光」を見出され、移ろいの美しさの中に“変わらぬ慈悲”を感じ取ります。

秋はまた、浄土真宗で最も大切な法要――「報恩講」の季節でもあります。


幸教寺では、令和7年10月14日(火)に報恩講をお勤めしました。


参拝者の皆さまとともに、読経の声を響かせ、宗祖・親鸞聖人の御恩を偲びながら、法話を通じて“感謝の心”を分かち合いました。

京都の紅葉 ― 無常を映す自然の彩り

秋は、まさに「無常」を映す鏡です。

なかでも千年の都、京都を彩る紅葉は、栄華と衰退を表現し、まるで仏法を自然が説くかのようです。

京都で有名な寺院を三ヶ寺ご紹介します。

・永観堂(禅林寺)

永観堂(禅林寺)は「みかえり阿弥陀」で知られます。

修行僧・永観律師に向かって「そなた、遅いではないか」と阿弥陀さまが振り返られたと伝わるお姿。

その慈悲の眼差しに、紅葉の赤が重なります。

阿弥陀さまは常に私たちを見守り、「遅くなってもかまわない、我はここにおる」と呼びかけてくださっているのです。

・東福寺

東福寺の通天橋から眺める谷の紅葉は、法界そのもの。

一葉散るのも、また生まれるのも、すべてが仏のいのちの流れ。

「生滅滅已、寂滅為楽」――生まれては滅し、滅しては安らぐ。

その静けさの中に、仏法の真理が息づいています。

・天龍寺

嵐山・天龍寺の庭園では、紅葉が池の水面に映り、光と影がひとつになります。

夢窓疎石が作庭した「曹源池庭園」で有名です。

陽と風と雨と土、人工と自然、あらゆる縁に生かされて色づくのです。

報恩講とは ― 恩徳に気づかされる法要

報恩講(ほうおんこう)は、宗祖・親鸞聖人のご命日(旧暦11月28日)をご縁として勤められる、浄土真宗で最も重要な法要です。

「報恩」とは、恩に報いること。

親鸞聖人が阿弥陀如来の本願を明らかにしてくださったことに感謝し、み教えを受け入れる場です。

本願寺派(西本願寺)では、新暦1月9日から16日までの8日間、京都・西本願寺で「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)」が厳修されます。

こうして、京都では紅葉の名残から冬の静けさへと移る季節、全国各地の寺院では秋から冬にかけて、報恩講が勤まります。

それぞれの地で、季節の彩りの中に、“変わらぬ恩徳”を味わう時間が流れます。

紅葉と報恩講が語る「移ろい」と「光」

紅葉は散りゆくことで春に向けて次のいのちを育てます。

報恩講は、み教えを学び、親鸞聖人のご遺徳の中から“今”を生きる力をいただく法要です。

どちらも、「生と滅」「恩と報」という循環の中にあります。

親鸞聖人は、『教行信証 行巻』において「光明無量」と説かれました。

阿弥陀如来の光は、時も空間も超えてすべてを包みます。

紅葉が光に透けて輝くように、私たちの悲しみや迷いも、この光に照らされて意味を持ちます。

それはまるで、昼夜を問わず照らしてくれている太陽と月のようです。

阿弥陀さまの光の世界“無量光明土”を、この世に感じさせるようなひとときでした。

幸教寺報恩講 ― 感謝の場としての実践

令和7年10月14日(火)幸教寺では秋晴れのもと、報恩講をお勤めしました。

本堂には香のかおりが満ち、読経の声と雅楽の音色が荘厳に響きました。

法要は「読経」から始まり、その後の「法話」では、親鸞聖人のご生涯と、雅楽を通じて、古代より続く仏教の精神性についてお伝えしました。

参拝者の方々からは毎年、

「報恩講に来ると、1年の区切りを感じて心がすっと落ち着く」
「雅楽の音色が胸に染みました」

という声が寄せられます。

お念仏を称える声の中に、「生かされている」という感謝が芽生えます。

そして、その感謝が次の一年を照らす光となるのです。

光明無量 ― 阿弥陀さまの光と衆生のいのち

阿弥陀仏の光は、限りのない智慧と慈悲のはたらきです。

『仏説無量寿経』の第十二願「光明無量の願」には、こうあります。

「もし我れ仏を得たらんに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」

また、第十三「寿命無量の願」では、

「寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ」

阿弥陀仏は、時(寿命)にも、空間(光明)にも限りを設けず、すべてのいのちを包み込む仏としての誓いを立てられ、永い修行を経て成就されました。

「無量光明土」すなわち阿弥陀仏の浄土が成り立ったのです。

正信偈に詠まれた「必至無量光明土 諸有衆生皆普化」

親鸞聖人の『正信偈』には、次の一節があります。

【必至無量光明土 諸有衆生皆普化】

(必ず無量光明の浄土に至り、あらゆる衆生をあまねく導く)

「無量光明土」とは、限りない光が満ちる浄土。

その光は、すべての有情、人も動物も、いのちあるものすべてに及びます。

曇鸞大師は、煩悩を離れられない凡夫であっても、阿弥陀仏の本願力によって信心が起こり、迷いのままに救われると説かれました。

浄土に往くことを「往相(おうそう)」、浄土から再び衆生を導くために還ることを「還相(げんそう)」といいます。

つまり、阿弥陀さまの救いとは、“行って、また戻る”

救われた者がまた他者を救う、循環する慈悲のはたらきなのです。

おわりに ― 無常を超えて生きる

紅葉が散るとき、それは終わりではなく、次の春への準備でもあります。

この自然の営みの中に、「無常と希望」がともに息づいています。

仏教では、すべての存在は“縁”によって生じ、変化し、消えていくと説かれます。

阿弥陀さまの光明は、その縁起の流れのすべてを照らす光。

苦しみも、悲しみも、すべては光の中に包まれているのです。

紅葉が光を受けて輝くように、人のいのちもまた、阿弥陀の光によって照らされ、その一瞬を尊く生きることができます。

すべての移ろいの中に「光」がある。

それが仏法です。

幸教寺では、これからも地域の方々とともに、法要や日常のつながりを通じて、「光に包まれた安心」を分かち合っていきたいと願っています。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。