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門徒(檀家)って何?

門徒(檀家)って何?

門信徒(もんしんと)以下:門徒とは

辞書では「同じ宗派を信仰している人々」を指す言葉ですが、一般的には、浄土真宗を信仰する人のことを言います。

浄土真宗では檀家(だんか)という言葉を用いず、門徒と呼びます。

これは浄土真宗の教えが家よりもまず””を重んじ、”個の救いが家や社会”に広まることを願っているためです。

また、浄土真宗そのもののことを門徒宗と呼ぶこともあります。

ちなみに檀家とは、特定のお寺に所属し、葬祭や供養などを専属で営んでもらう代わりにそのお寺を経済的に支援する家(家系)のことを指します。

近年、門徒と聞くと「お寺の世話をしなければならない」「寄付を募られる」「勧誘される」等の理由により、お寺の運営事態や僧侶の人柄関係なく嫌われる風潮にあります。

しかし、本来の門徒とお寺の関係性や浄土真宗のみ教えについてお尋ねするとほとんどの方が知らないと仰られます。

つまり、門徒という言葉の印象がひとり歩きをし、何となくマイナスのイメージを与えているようなのです。

今回は、門徒とお寺の関係性をご理解していただくために、その仕組みや考え方、メリット・デメリットについて解説していきます。

浄土真宗とは

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、「浄土へ往き生まれるための真実の教え」という意味で、鎌倉時代より始まった仏教宗派のひとつです。

仏教は、悟りを得るために色々な教えや方法をお経に基づいて実践していく宗教です。

その実践方法は大きく分けると、「座禅、真言、お題目、念仏」などがあります。

色々ある教えの中で浄土真宗は”念仏のみ”を選び取り実践している宗派となります。

では、誰が浄土真宗は”念仏のみ”と言われたかというと

宗祖 親鸞聖人(しんらんしょうにん)です。

ただ、親鸞聖人一人で考えられたのではなく、その師である浄土宗開祖 法然上人(ほうねんしょうにん)によって明らかにされた念仏の教えを継承し展開させた経緯があります。

今日の浄土真宗教団は親鸞聖人の亡くなられた後に、そのお弟子さんや信者さんたちが発展させました。

浄土真宗のみ教えについてはタイトルがミスマッチしているように見えますが、ブログ内で詳しく書いておりますので、【】内をご覧ください。

【考察 浄土真宗に永代供養はない?!】

仏教と信者の関係性

親鸞聖人の亡きあと、優秀なお弟子さん二十数人や各地方の門徒さんによって浄土真宗のみ教えは伝えられてきました。

しかし、現在のような「お寺と家との関係性」であったかはわかりません。

少なからず仏教そのものの性質や、日本の政策などにより時代と共に変化しています。

ここでは、門徒のような概念はいつから始まり、いつから今の状態へと変わったのか書いていきます。

仏教は寄付により成立している

そもそも、お寺と家との関係性がなぜ結びついているのか?

それは、仏教そのものが関係しています。

2500年前、お釈迦様はシャカ国の王子でしたが、29歳の時に城を飛び出して出家しました。

出家とは、身分や財産を放棄するということです。

そして、放棄したのみならず自分から生産活動などを止めてしまいます。

これは、古来インドより続く「カースト制度」の影響と「サティヤ satya」という考え方によるものなのですが、ここで詳しくは書きません。

自ら身分や財産を放棄し、生産活動を止めると「人から物乞いしなければ生きていけません」

そこで、お釈迦様は自分が悟りを得たことによって、あらゆる苦しみから解放される教え”仏教”を人々に伝えることにしました。

この過程で弟子の僧侶たちと民衆による仏教教団が成立していきます。

仏教を伝えるかわりに当時の村の人々にお布施(寄付)をお願いしました。

お布施とは

お布施は、見返りを求めず僧侶に対して相応の施しをすることです。

それにより、善い行いを積み重ねて過去の罪(業)を清め、来世により良い世界へと生まれ変わる輪廻転生(りんねてんしょう)というインド古来の考え方に基づいています。

また、過去世や来世のことのみならず、現世を生きる自分自身が物の執着をなくしていくという1つの修行法でもあります。

お布施は別名「檀那(旦那)(ダーナ、दान、dāna)」といい、他人に財物などを施したり、相手の利益になるよう教えを説くことや、相手の畏れを取り除いてあげることなどその意味合いは多岐にわたります。

大きくジャンルを分けると

・有形のモノを施す 財施(ざいせ)

金銭や衣服食料などの財を施すことです。

現代においてお布施と言えばお金という考え方が多いようですが、実は食べ物や衣類なども該当します。

何故、お金なのかというと実は2500年前の古代インドにおいては既に貨幣が存在していて、お釈迦様がそれを許されたからです。

日本はご存じの通り資本主義中心の考え方で、仏具やお寺の維持管理もほとんどが現金です。(ある意味当然)

ですから現代においてお布施=お金という考え方は間違っていません。

・無形のモノを施す無財施(むざいせ)

ここでは、その代表的なものをご紹介いたします。

一 知識や教えなどの法施(ほうせ)

僧侶が仏事において読経やお説教をしたり、仏教講座を開いたり、普段の会話の中で仏教について語ったりすること全てが法施です。
一般的にこの法施に対して、財施であるお金を寄付するという仕組みが今日のご法事です。
お布施に対してお布施で返す仕組みなので、サービス料や対価ではないといわれる所以です。

二  明るく優しい顔で接する眼施・顔施(げんせ・がんせ)

皆さまはご挨拶をするときどのようなお顔で接しますか?
多分、怒った顔ではしないでしょう。
優しい顔や眼差しは、それだけで人の心を明るくさせるものです。

三  温かいやさしい言葉をかける言辞施(ごんじせ)

何かに迷っていたり、失敗した時、逆に仕事で成功したとき、合格したとき心の底から相手の立場や気持ちになってかけてあげる言葉。
それ自体もお布施です。

四  恐怖を取り除き穏やかな心を与える無畏施(むいせ)

人間において最大の恐怖
それは「死」ではないでしょうか?
仏教では「生・老・病・死」という段階的な人間の苦しみを理解し、心をコントロールするという仕組みが教えの中に組み込まれています。
つまり、法施の内容そのものが無畏施であるということができます。

五  何かをお手伝いする身施(しんせ)

奉仕の心です。
道徳的には重要と頭で理解されながらも、現代価値としては疎んじられます。
しかし、奉仕もできない人間に成功(経済的な意味ではなく、人格の完成)などありえません。
お勤めや学業、趣味の時間を優先させたい気持ちは誰しも一緒です。
それでも、時間を割いて活動する身施にこそ、その人の功徳が備わるといえるでしょう。

六  善い行いをほめる心施(しんせ)

「いい人と思われたいだけだ。どうせお世辞に決まってる。やって当たり前だ。」このような言葉をよく聞きます。
何故、素直にその言葉を受け入れないのでしょうか?
何故、素直に感謝できないのでしょうか?
善い行いは周りを幸せにします。それに対して素直に受け入れ感謝しましょう。
そして心施として素晴らしい言葉を伝えましょう。

七  場所を提供する床座施・房舍施(しょうざせ・ぼうしゃせ)

電車などの乗り物で、小さい子供や妊婦さん、お年寄り、身体的障害をお持ちの方に席を譲っているかと思います。これを床座施。
宿を提供する(房舎施)というのは現代では少なくなりましたが、四国のお遍路さんなどでは行者さんに対して無償で宿を提供しております。
このような行為は、2500年前から善い行いとして伝えられ、何気ない対応がそのままお布施となっているのです。

お布施に関する詳しい記事は【】内をご覧ください。

お寺が政治に関与

お寺(仏教)と家(信者)との関係性にお布施は必要であると書きました。

この考え方が日本においてどのように変化したのか見ていきましょう。

仏教が伝来した古墳時代末期において、蘇我氏(聖徳太子)や秦氏といった有力な一族が仏教信者となって寺院(氏寺)を建立し、国の政策として仏教・諸宗派を保護しました。

この時、仏教は宗教本来の性質だけでなく、当時の”最先端の大陸文化の一つ”という認識で受け入れられました。

そして、時代が下るにつれ、それまで有力者の信仰や政策の対象であった仏教が、民衆などに広く社会に浸透し、国単位から家単位になりました。

鎌倉時代までは貴族やお寺の支配力が大きかったのですが、現在の意味合いになるのは、貴族社会から武士社会へと変わり荘園制(土地所有の見直し)の崩壊によって寺院の社会基盤が変化してからです。

莫大な資産を持つ貴族や国の庇護にあやかれなくなったお寺の財政は、一部を除いて衰退していきます。

そして、再興するのは江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度(てらうけせいど)と檀家制度(だんかせいど)ですが、これこそが関係性の始まりです。

飴と鞭を経験したお寺

江戸時代、キリスト教禁止令を発端とする寺請制度は、江戸幕府が宗教統制の一環として全国に設けた監視制度です。

強制的に近隣のお寺の檀家にさせて、その檀家の証である「寺請証文」を受けることを義務付けることによって「キリシタンではない」ことを寺院に証明させる制度です。

単にキリシタンの弾圧だけはなく様々な要因が絡んでいます。

大名たちの恐怖”一向一揆”

江戸時代よりはじまった寺請制度ですが、ここに至るまでにはある要因が絡んでいます。

それは、戦国時代の一向一揆(いっこういっき)です。

浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的反乱の事です。

かつて、織田信長や加賀藩主富樫正親、徳川家康の武力と対立できるほどの勢力を誇っていました。

皆が皆、兵士ではありませんでしたが、浄土真宗のみ教えである「阿弥陀如来の本願によって極楽往生できる」という教義により、死をも恐れない強固な信仰組織を形成しました。

最終的に、現在大阪城のある場所にて石山合戦を経て、織田信長などによって鎮圧されたものの、本願寺教団の力を支配者へ見せつける出来事でした。

この教団を恐れた大名たちは、以後教団を敵にすることはなくなり、代わりに和睦の証として寺領の提供や寄進などをするようになりました。

その後、江戸時代初期にキリスト教徒による「島原・天草の乱」の衝撃は、江戸幕府にとって想像を絶する事態であったようです。

松倉勝家らの圧政が原因とは言え、死ぬことを厭わない「殉教」の教えに結びついたキリシタンの恐ろしさは、一向一揆を思い出させ幕府を震え上がらせました。

お寺の再興

相次ぐ反乱に幕府としては頭を悩ませていましたが、今度はお寺が利用される形となりました。

それが寺請制度と檀家制度です。

簡単に言えば、お寺に民衆の戸籍管理をさせてキリシタンでないかを監視し、さらに正確な人数を割り出させて適正な年貢を徴収するというものです。

これにより、お寺は今でいうところの役所的な立場となりました。

強制的に近隣のお寺の檀家にさせて、その檀家の証である「寺請証文」を受けさせると書きましたが、この証文がないと旅に出ることも出来ず、社会的な立場を奪われるという厳しいものだったのです。

証文の発行された各家は、葬儀や法要などを戸籍管理しているお寺に頼むことになります。

これが現代まで続く檀家制度の正体です。

現代の価値観から見るお寺との関係性

現代まで続く檀家制度は江戸時代からはじまったことを書きました。

しかし、その時代の人々は幕府の政策により、ただ単に仏教(お寺)を押し付けられただけなのでしょうか?

それでは、また反乱の原因となりかねません。

しかし、お寺が戸籍管理などの運営を任されたのは、少なからず仏教自体が素晴らしい教えだったからではないでしょうか。

2500年という時代や文化を越えて伝わった仏教は、人類にとって大変な価値があるのです。

現代人の価値観

前述したように現代の檀家制度は江戸時代からの流れを汲んでいます。

今まで”その土地に住み続けることが条件”で成り立っていた檀家制度は、核家族や本社移動などによる社会情勢によって崩壊しつつあります。

”家や一族の信仰”として保たれていた宗教宗派も徐々に”個人の信仰”が重んじられ、その信仰の矛先は宗教ではなく、YouTuberやインフルエンサーといった人たちに変わりつつあります。

しかし、それらが「本当に価値のあるものか?」といえばそうではないでしょう。

SNS疲れという言葉があるように、承認欲求を満たそうとする架空の世界は競争社会でもあり、癒される為や欲求を満たす為にアクセスしたつもりがかえって劣等感を感じさせられしまうということがあります。

スマホの普及によって他人と簡単に比較し、比較される時代となりました。

断言しますが、そのような虚構の世界に癒しや救いは存在しません。

これは私の考えでなく、仏教の教えです。

離れる時間を作る場所

私はもともと一般家庭の出身です。

17歳の時に仏門に入りましたが、小僧時代にお寺と関係して一番良かったと思うことがあります。

それが、「現代の価値観や時間から離れることができる」ということです。

学生時代から既にネットやメールなどが自由に出来た世代です。

大変便利ではありますが、それがかえって”人との時間や価値観の共有を無理やりさせられたりする原因”でもありました。

どこにいても連絡をされ、連絡が遅くなれば問われ、人と違う意見を書き込めば批判され叩かれ、大人から「勉強していい大学に入り、いい会社に就職しろ」などなど。

人と常に繋がれる状況が、かえって自分の時間を作る(向き合う)ことの妨げとなりました。

このような時代において、仏教では“独りで生きる”ということを伝えています。(一夜賢者経)

社会的に孤立しろという意味ではなく“周りに流されない個という存在を確立し、今という時を大事に生きる”という意味です。

それを実践するには、まず自分自身を見つめなおすことが重要です。

なかでも、コンプレックスなどがあれば出来ない自分、理想の姿でなければならないと思い込んでいる自分を赦し、そして受け入れること。

すると周りの人も「○○しなければならない」という呪縛から解放され、赦してあげられる関係性となります。

もちろん、最初から一人では難しいでしょう。

だから、お釈迦様や親鸞聖人は教団(サンガ)というコミュニティを作り、弟子や信者と一緒に仏教を実践したのです。

お寺は一緒に実践していく場所で、門徒さんはこれらの共通認識を持った人たちなのです。

当寺院と門徒さんとの関係

現代におけるお寺と門徒との関係性は、仏教やお寺にご縁のない方からすればわからないかもしれません。

なので、「お寺の世話をしなければならない」「寄付を募られる」「勧誘される」というような意見が出てくるのではないでしょうか。

少なからず、当寺院においては強制・強要をすることは一切ありません。

あくまでも門徒さんにご理解ご協力を得たうえで運営しております。

運営方法に関して

・月参り

故人様の祥月命日に仏壇前で読経

・ご法事

親族一同集まって一周忌などの法要をする

・葬儀

臨終から初七日まで読経し故人を弔う。

・年に5回の法要

春のお彼岸、永代経法要、盂蘭盆会、秋のお彼岸、報恩講

・永代供養墓の管理・運営

遺骨を管理し永代供養する。

・シンギングボウル瞑想会

ヒーリングや癒しの効果、マインドフルネスを伝える時間。

・月に2回健康に関する取り組み

ココカラ相談所、まちの保健室

・月に1回~2回ヨガ

ココカラYOGA

これらの取り組み(儀式、イベントの開催)によるお布施で運営されています。

法要やイベント全般に一貫して言えるのは、お寺なので常にわかりやすく仏教をお伝えしているということです。

以下、【】内は活動概要と報告です。

門徒のメリット・デメリット

さて、ここまで非常に長くなりましたが、お寺と門徒との関係についてご理解いただけたかと思います。

ここからは、当寺院の門徒になるメリット・デメリットについて具体的に書きます。

メリット

まず当寺院の設備と特典を列挙しますと

・仏事全般のサポートと執行
・永代供養墓、納骨壇の年間管理費無料
・各種セミナー無料参加
・寺報配布(お寺の情報紙)
・無料Wi-Fi
・限定動画配信(法要・リモート法事・仏教・作法・イベント)
・図書室利用
・イベントチケット無料配布
・本堂の使用
・予約制ジムの利用(更衣室・シャワー付き)

このようになります。

お寺なのにお寺らしくない、、、というのが当寺院の強みです。

「ココロとカラダの健康を伝えるお寺」としてリスタートしました。

その他

・理学療法士監修の「ココカラ相談所」
・大阪府看護協会「まちの保健室」
・ヨガインストラクターによる「ココカラYOGA」

これらの活動もしています。

ジムはもともと私の趣味が高じた結果ですが、門徒さまであれば無料でご利用いただけます。

デメリット

デメリットに関して2つあります。

1つは、当寺院の開閉時間は

AM9:00~PM17:00までとなります。

ですので、仕事帰りにジムや図書室などの施設を利用するというのが難しいです。

また、法要日や本堂でのお葬式となると施設内での利用制限があります。

2つは、法要儀式の執行や施設ご利用にあたり”お布施”をお願いしております。

金額については決まっておりませんが、当寺院の門徒さんからは月額3000円~5000円の範囲でお布施をお預かりしております。

参考の為に【】内もご覧ください。

おわりに

お寺と門徒の関係性について、古代~現代まで一気に解説しました。

メリット・デメリットは、どうしても設備面や金額面でしかお伝え出来なのが残念ですが、それ以外にも終活関連やお悩み相談などもしておりますので、トータルでお考えいただければと思います。

この時代にお寺は必要かどうかは、私たち僧侶の手に委ねられていると思っています。

皆様の声を聞き、問題に取り組んだり応えたりしながら日々精進いたします。

以上、門信徒についてでした。

投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早17年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。