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考察 浄土真宗に永代供養はない?!

皆さんこんにちは。

以前からブログで”永代供養”についての記事を書いています。

まだの方はコチラ

最近はアクセス数も増えてきまして、色々な方からご相談を受けるようになったのですが、当HPやSNS経由でのお問い合わせで

「浄土真宗のみ教えに永代供養はないのではありませんか?」というご質問がありました。

この方はおそらくとても篤信な方です。

永代供養に関するご質問は、だいたい詳しい供養の仕方・保管年数・費用等なのですが、きちんと教義を学び、お聴聞されているお同行なのでしょう。

ただ、私個人としては”永代供養”という呼称を変えることは考えていません。

そこで、今回は浄土真宗の永代供養について過去のブログ記事や聖典からも引用しつつ考察してみたいと思います。

永代供養とは?

一般的に永代供養とは、お墓参りに行けない方に代わって、またはお墓の継承者がいない場合に霊園や寺院が供養・管理してもらえる埋葬方法を指しています。

ただ、「永代」と言っても、未来永劫ということではなく、ご遺骨の安置期間に一定の期間が設けられています。

33回忌を期限とすることが多いようですが、期限自体に宗教的決まりはなく、霊園や寺院によっては17回忌や50回忌など様々です。

つまり、宗教者の在中している霊園やお寺などにおいて、自分の代わりに先祖代々のお墓を管理・供養してもらうシステムです。

これによって

・無縁仏(お世話をする人のいない墓)にならない。
・お墓の管理が楽
・墓石などを建てる従来のお墓より費用が安い

などのメリットがあり人気です。

供養という言葉の意味

供養は、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)といいます。

仏様、菩薩様、諸神などにお香、お花、燈明、飲食などの供物を真心をもって捧げることを指します。

人間が仏様方を供養するだけならば、「供に養う」とは書きません。

しかし、供養と書かれるのは仏様方から私たちを”養うはたらき”があるので供養というわけです。(これについては後述)

永代供養≠追善供養

永代供養のお話を進める前に、追善供養(ついぜんくよう)について触れておきます。

永代供養=追善供養というように先祖を弔うことが永代供養であるという考え方が一般的となっております。

故人様、ご先祖様のために遺族や子孫が行う供養のことを、追善供養といいます。

これは、故人様が死後の世界で安らかな眠りにつけるように子孫が代わって善い行いをするという考え方です。

何故、このようなことをしなければならないのかと言うと、仏教では死んでからすぐに天界(天国)ないし浄土へと直行できるわけではないからです。

人間は死ぬと、中陰(ちゅういん)という49日間の死出の旅がはじまります。

その旅の道中、7日ごとに死者は様々な裁判や試練を受けるので、すぐさま安らかに眠ることはできません。(最も有名なのが、三途の川を渡ることと、閻魔大王に裁かれるということ)

この旅の試練は、生前の行いによって大きく左右されると言われております。

すなわち、善い行いをしたものは試練の度合いは易しく、逆に悪い行いをしてきたものは試練の度合いが難しい訳です。

「ご冥福をお祈りいたします」という言葉は、「この試練の旅が少しでも楽でありますように」と願いを込めていう訳ですが、親族であるならばできるだけ故人様の旅が易しいものでありたいですね。

しかし、それらは説明した通り「本人の生前の行い」で決まります。

ところが、本人はすでに死んでしまっているので旅の試練がいくら難しくても、その道中に善行を積み試練を易しくすることはできません。

そこで、少しでも試練を緩和する為に生きている人(親族)が亡くなった本人の代わりに冥福を祈って供養するのです。

故人様の代わりに善行を積み供養することによって、故人様の試練が楽になり、来世においてより良い世界に生まれ変われるのです。

更に、これらの行為を通じて”自分自身の死後の試練も楽になります”し、来世においてより良い世界に生まれ変われるのです。

これを輪廻転生(りんねてんしょう)といいます。


これらを整理しますと

・故人様の生前の行いによって死出の旅の難易度が変わる

・遺族が故人様の代わりに善行を積むことができ、故人様の罪を軽くすることができる

・その行為自体が、自分の罪をも軽くすることになる

・これら善行によって、来世に家畜や人間として生まれ変わるのか、神や仏として生まれ変わるのかが決まる

ということになります。

浄土真宗の供養

今まで書いてきた内容は、浄土真宗のように一部の宗派に該当する考え方です。

古来より仏教は、厳しい修行と戒律(自力修行)によって成仏できるという考え方が主流でした。

ですから、修行(追善供養含む)などをして善行功徳を積まないと「死出の旅」で大変な目に合うわけですね。

では、永代供養とは何か。

詳しくみていきましょう。

浄土真宗は他力の教え

厳しい修行と戒律によって成仏できるという考え方を「自力聖道門」といいます。

わかりやすくいうと、自分が頑張った善行功徳の分だけステップアップし、悟りへの道が開かれていく考え方です。

この考え方から、追善供養の考えも生まれた訳ですが、浄土真宗は”阿弥陀如来という仏様のお力によってのみ救われる”(悟りへの道が開かれていく)「他力浄土門」という考え方です。

仏教では、薬師如来、大日如来、釈迦如来、多宝塔如来などたくさんの仏様がいて、それぞれ悟りへの道を手助けしてくださいますが、実は制約が色々とあります。

その中でもっとも制約・条件が易しいのが阿弥陀如来(無量寿仏)です。

この阿弥陀如来は「生きとしし生けるものを必ず救う」と誓われた仏様です。

その根拠は『無量寿経 巻上』というお経の中に
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

現代語訳

「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」

このように誓われました。

心から信じて、浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏(南無阿弥陀仏)と称えれば悟りへの道が開かれていくというのは画期的です。

ちなみに、最後の文(唯除から後)に関して浄土真宗開祖の親鸞聖人は「ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」の意味を

「唯除五逆誹謗正法といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」と見られました。

簡単にいいますと「阿弥陀如来がどれだけ悪いことかをよく知らせてくだる親心で、きちんと叱った後に皆救われていく」ということです。

この根拠が書かれている箇所は、阿弥陀如来の”四十八願”の中でも最重要”十八願”(本願)といって、”生前”に生きとし生けるものを必ず悟りへと誘い、”生前”に信心を賜ることにより極楽浄土へ導かれると教えています。

このように阿弥陀如来のお力(本願)をただ拝受することを「他力本願」といいます。(世間的に言う他人任せとはまったく意味が違います)

上記「供養という言葉の意味」で”供に養う”ことを供養と書きましたが

・阿弥陀如来から私たちへの養いは”本願”
・私たちから阿弥陀如来へは”お香、お花、燈明、飲食などの供物”

この双方の関係をもって”供養”の意味となります。

このように、「どのような悪人でも阿弥陀如来によって救われると信知するもの」は、亡くなった後すぐに極楽浄土にたどり着くため、死出の旅も免除されます。

ですから、追善供養は必要とされていないのです。

幸教寺の永代供養

浄土真宗で追善供養はしないという理由をお判りいただけたかと思います。

それでは、当寺が永代供養をする訳を見ていきましょう。

まず、浄土真宗では永代供養と似た言葉に”永代経””永代経法要”という言葉があります。

その説明について、それぞれの西本願寺と飛地境内大谷本廟のHPから引用し確認しましょう。

・本願寺HPより引用

永代経法要は、門信徒の方々によるご懇念によってご本山やお寺が護持され、お念仏のみ教えが永代にわたって受け継がれていく法要です。

いのちを恵まれた私たちが、法要をご縁として、仏恩報謝の心を表すことであり、その心はやがて子や孫に受け継がれ、み教えを聞き広めるご縁となります。

ご法義を大切にされる方々の思いが、永代経法要であるともいえます。

・大谷本廟HPより引用

永代経とは、亡くなられた方やご自身をご縁に、命の尊さに気づかせていただいた私たちが、仏法聴聞の場であるご本山や所属のお寺に懇志を進納させていただく尊い習慣として伝えられています。

その主旨は、ご本山やお寺が立派に護持され、お念仏のみ教えが永代に受け継がれていくことです。

さらには亡くなられた方を通して、私たちがお念仏を依りどころとして、多くの「おかげさま」の中に生かされる身の幸せに感謝の心をあらわすことでもあります。

その心は、やがて子々孫々に受け継がれ、永代経法要を通してみ教えを聞き伝え広めるご縁となります。

亡くなられた方を偲び、法縁を大切にされるあなたの思いをあらわしたものが、永代経法要と申せましょう。

引用以上

やんわりとしているので解説いたします。

まず、言葉として非常に似ていてややこしいのですが”永代経”は供養の対象者が”阿弥陀如来”と”私”でご先祖様ではありません。

つまり

・阿弥陀如来の「必ず浄土へ生まれさせるよ」という本願(念仏)に”私”が感謝をすること(仏恩報謝〈ぶっとんほうしゃ〉)

・阿弥陀如来やみ教えに出会うきっかけを作ってくれた場所は、故人様やお寺なのでに子孫の代まで守っていこう

ということです。

永代に渡り、阿弥陀如来のご本願を私が拝受し感謝する証として、お香、お花、燈明、飲食などの供物を真心をもって捧げ供養する。

このような意味合いで当寺では”永代供養”と呼称するわけです。

以下、【】内に引用記載HPのリンクを貼っておきます。


亡き人への思いやりも大切

親鸞聖人の奥様である”恵信尼”様が書かれたお手紙『恵信尼消息』の第5通にこのようなことが書かれています。

「三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。」

以下、意訳

群馬県と埼玉県との境、佐貫において親鸞聖人が亡くなられた方に対して読経をしました。(追善供養)

しかし、やがて自分のとった行為や考えが間違いであったことに気づかれ反省されました。

阿弥陀如来は「必ず救う」と誓われている。

それを、親鸞聖人は信じて疑わず、更には人々に説き広めて信じさせることが本当に仏の恩に報いることなのに、名号を称えるほかに、何の不足で、どうしてお経を読もうとするのだろうかと、4~5日ほどして思い返して読むのを止めて常陸のほうへおいでになった。

意訳以上

鎌倉時代、関東一帯では地震が頻発し、大雨や洪水、飢饉による被害が相次いでいたそうです。

亡くなられた方に対して読経をする親鸞聖人の姿勢に反対される方は少ないでしょう。

しかし、親鸞聖人が読経をすることによって人々が救われるのであれば、それは自力として、阿弥陀如来の他力本願を疑っているということになります。

”阿弥陀如来のご本願を伝えることが使命だ”と読経中に親鸞聖人は気づかれたので中止されたのです。

このエピソードは三部経千部読誦(さんぶきょうせんぶどくじゅ)といいます。

確かに、浄土真宗のみ教えに当てはめると”必要のない行為”かもしれません。

阿弥陀如来が必ず救ってくださるのですから、たとえ亡骸を目の前にしても死後のことなど何の心配もいらないはずです。

しかし、その場での読経が間違っていても、親鸞聖人の”困っている人のために何か役に立ちたい”という突発的な行動に私は心を打たれました。

これは、論理的な話ではなく”思いやり”という直感的な話ですが、この亡き人に対して”供養したい”という感情もお勤めをしている中で非常に大事だと思っています。

これもまた、み教えを私に伝えるために亡き人が繋いでくれた”ご縁”ではないでしょうか。

少なからず、私がご葬儀などで導師を勤める際には、このようなことを考えております。

まとめ

中国唐時代初期の僧で、浄土真宗で言う七高僧の一人、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)は、 その著『安楽集』の中でこのような言葉を残しています。

「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」(『浄土真宗聖典 註釈版』P.474)

この言葉は、親鸞聖人も、『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』という書物の終わりに引用されておりますので載せます。

現代語訳

「前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、(仏法が)果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。それは、数限りない迷いの人々が残らず(仏に)救われるためである」(現代語版聖典『教行信証』P.646)

何でもそうですが、大切なことやモノは、 先代から代々伝わっています。

末永く経が読まれることで、後の代へも仏縁が続くのです。

浄土真宗の永代供養とは、末永く永代に子どもや孫の代やもっと後の代にまでみ教えが届き、そのさまをお浄土にいらっしゃる仏様やご先祖様が喜ばれることをいいます。

仏様になると遺された方々がみ教え(仏法)を聞かれることをお浄土から大変喜ばれるそうです。

亡くなられた方のみならず、生きている私が仏の教えに遇うことも供養になるのです。

ですから、「永代供養したから終わり」ではなく、仏法を聴きにお寺へお墓へどうぞご参拝ください。

長文となりましたが以上、考察 浄土真宗に永代供養はない?!でした。

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投稿者プロフィール

石原 政洋
石原 政洋住職
高校在学中に仏道へと入門し、早17年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。