彼岸期間中につき
幸教寺住職です。先日、彼岸についての動画をあげましたが、御覧いただけましたでしょうか?今回は、文章におこしてみようと思います。
彼岸という呼び名はサンスクリット語の「パーラミター」を漢語「波羅蜜多」に意訳したもので、仏教でいう悟りの世界のことです。私たちが普段生きている世界が「此岸(しがん)」といいます。農耕民族の日本人は、この神秘的な日を(一週間)を古来よりとても大切な日とし、春は豊穣を祈り、秋は収穫を感謝しました。作物を育てる太陽に、自分たちを守る先祖に、自然界すべてに感謝してお供物を供えしていたそうです。また、この一週間を、お日様に願い、毎日の日照、天候、自然に感謝の気持ちを表す期間にしようと云うのが『日願(ひがん)』と考えられていたようです。
古代より太陽を神と崇め奉るのは珍しいことでもありません。例えば、エジプト神話のラー、ギリシャ神話のヘリオス、インド神話のスーリヤ、北欧神話のソールなどですが、日本も例外ではなかったようですね。
日本古来の民間信仰が仏教伝来と合いまみえ、この『日願』と『彼岸』の教えとが融合して、日本独特の信仰のかたちをつくり上げてきたと思われます。彼岸の最古の記録と思われるものは、日本後紀に記されている「延暦25(806)年、早良親王のために、春分・秋分を中心とした7日間、お経を転読させた」という記述だそうで、つまり1200年前の平安時代にはすでに、春分・秋分の日が宗教的意識と結びついていたということです。この法要が恒例となり、朝廷の年中行事になりました。早良親王といえば藤原種継暗殺の謀反を兄の桓武天皇にきせられ死亡したといういわくつきの人物として有名ですね。
仏教の日想観といえば、当寺の近く天王寺に「夕陽丘」という地名がございます。1236年(嘉禎2年)に歌人・藤原家隆が、浄土教の教えである「日想観」を修するためにこの地に移り住んで終の地とし、住居として『夕陽庵』(せきようあん)を設けたことが夕陽丘の地名の由来とされています。家隆は「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも」と歌を詠み残しており、かつては大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地で四天王寺西門辺りが有名だったそうです。そのような地が幸教寺の近くにありました。彼岸期間も折り返しを過ぎました。皆さま各々、仏道修行に精進くださいませ。
動画は先日9月19日に行われた法要です。
https://www.youtube.com/watch?v=RiXFE91jrBA
投稿者プロフィール
- 高校在学中に仏道へと入門し、早20年以上携わっております。当寺ではあらゆる角度から仏教の素晴らしさをお伝えするとともに、仏教伝来より培われてきた伝統文化と健康を共有する「体験型」寺院を目指し活動しております。ライフスタイルの多様化により、葬送や納骨などの形式が変化している近年です。終活に関するご相談も随時承っておりますので、お気軽にご相談ください。
最新の投稿
- お知らせ2024.10.3111月のイベント
- 法話2024.08.11お盆の文化を探る:浄土真宗における特別な意味と行事
- ブログ2024.08.10墓石に込められた物語:世界の埋葬文化を探る
- ブログ2024.08.08お墓の秘密: 石で築かれた永遠の象徴